パリの市場事情から日本の市場を考える 2/2

『専門店』2010年2月号に掲載された記事です。

札幌の商いの発展と明治生まれの市場

ここで少し、札幌の状況をみてみたい。新しい街といわれる札幌だが、商いのはじまりは、1869年(明治2)ごろで、現在の南1条の両脇に町家が誕生し、創成川筋では、魚や野菜を立ち売りする行商人も現れたという。

パリの市場事情から日本の「市場」を考える 1/2
北海道では2009年末、明治時代からの老舗市場「円山市場」が閉鎖を決め、、農林水産省の「マルシェ・ジャポン」を札幌はつづける予定という市場のニュースが続いた。そこで、5世紀からはじまったパリの市場の歴史と大型店時代の現状について取材した。

1880年(明治13)11月に、手宮(小樽)―札幌間に鉄道が開通し、新鮮な魚類の運搬が容易になった。その翌年には、南1条西4丁目あたりに魚類を売る市場が現れたという。また、1884年(明治17)ごろには、狸小路の東側あたりに魚市場が開業し、それが分裂して、1897年(明治30)ごろに大通東1丁目あたりに市場ができたという。

現在の二条市場の基礎となる魚町市場が出現したのは、1903年(明治36)ごろのこと。南2条東1丁目にあったが、その後、東2丁目へと広がった。

第一次世界大戦後には、物価高騰の対策として、社会福祉施設的な公益市場が6軒設立された。私設の廉売市場も各所に登場し、1924四年(大正13)に新通市場(南10条西7丁目)、1927年(昭和2)にみゆき市場(南2条西13丁目)と大通公益市場(大通西17丁目)、1928年(昭和3)に狸小路市場(南3条西6丁目)など、1935年(昭和10)にかけて次々と開業している。

冒頭に触れた円山市場は、1893年(明治26)ごろに出現したといわれている。近郊の農家がリヤカーで農作物などを運び、南1条西11丁目あたりで市を開いたのがはじまりだった。その後、1922年(大正11)に西24丁目に落ち着いた。

ところで、札幌での大型店のさきがけは、1885年(明治18)に狸小路3丁目に創設された「第一勧工場」だといわれている。デパート第一号は、1893年(明治26)に建てられた赤レンガ造りの五番館で、1916年(大正5)に丸井今井が、1932年(昭和7)に三越札幌支店が開店した。

札幌にスーパーマーケットが現われたのは、1960年ごろで、70年代には、スーパーマーケットだけでなく、ショッピングセンターや大型専門店の進出が本格化した。80年代はコンビニの時代となり、札幌は一人当たりのコンビニ店舗数が全国平均より多い。

大雑把ではあるが、近代的流通への移行時期は、パリと札幌でさほど開きがあるわけではない。にもかかわらず、札幌のほうが、商店街や中小小売業の被害は大きく、衰退の度合いは深刻のようだ。

札幌の市場は、いずれも苦境に立たされている。狸小路市場や新通市場など、かろうじて残っている市場も、風前の灯に近い。長屋風建築のやよい市場のように、もはや現存しない市場も多い。

円山市場は、戦後の1949年(昭和24)に円山市場小売商組合が結成され、生産者が直売する今のシステムになった。その当時は、通路に何重も人が並ぶほどの盛況だったという。1970年(昭和45)に、現在の鉄骨2階建ての建物が完成。その頃は2階もにぎわっていたが、その後、店舗数は減少。現在営業しているのは、35店舗で、3月末に閉鎖が決まった。

札幌で活気のある市場は、観光客向けの二条市場と中央卸売市場の場外市場だろうか。二条市場は、80年代に入ってから観光客が詰め掛けるようになり、地元の人の買い物姿は減少した。札幌中央卸売市場は、1958年(昭和34)に開設され、隣接して18店舗で場外市場がスタートした。ここ20年は観光客が増え、市場前には客を運ぶタクシーが並ぶ。

町づくりを見据えた市場生き残りの試み

大型店の拡大が中小小売業を直撃したのは、どこの国も同じだ。フランスでは、一九七三年に、大型店を制約する企図で、ロワイエ法が制定された。しかし、この法律は期待された効果を発揮することなく、その後も大型店は次々と建設されていった。

フランスの食品関連のシェアは、大型店が七割近く占めているという。ハイパーマーケットは郊外型だが、ウーデーなどハードディスカウントは都市部への進出が加速し、そのシェアは約1割を占め、現在も上昇中だという。

こうしたなか、新規出店の規制を強化する必要に迫られ、1996年、ラファラン法が施行されるにいたった。徹底した法律のおかげで、一応は、大型店の拡大と中小小売業の減少に歯止めがかかったといわれている。

市場の活気も維持されているようにみえる。最近の調査でも、フランス全世帯の約三割は市場で買い物をするとの結果がでている。

ここで注目したいのが、フランスの政策は流通や経済の面だけにとどまっていない点である。大型店による開発で商店街や中小小売業は斜陽し、地域社会の崩壊を引き起こした。そこでフランスでは、地域活性化や町づくりを視野に入れた、多角的な施策を打ち出したのである。

時を同じくして、環境問題への関心も高まり、交通計画や都市計画の見直しも迫られていた。2000年には都市連帯・再生法が成立し、商業流通問題は、交通システムや都市生活の改善などをからめ、総合的な戦略として扱われることになったのである。

ちなみに、フランスで都市計画を立案する場合、市民参加型の話し合いがもたれ、地元の人々の声が反映できる仕組みになっている。

市場で働く労働者の権利を守り、地位向上を目指す取り組みも行われている。昨今、他の中小小売業同様、市場での経営状況は厳しい。フランスでは、市場で働く非定住商業者を支援するための組合などが、労働環境の改善といった提言を積極的に行い、同時に、非定住商業者の意識改革にも力をいれているという。

消費者のライフスタイルの変化にともない、新しいタイプの市場の導入にも意欲的だ。最近の成功例としては、有機食品だけを専門にしたビオ市場がある。日曜に開かれるラスパイユのビオ市場は有名で、その他、バティニョル市場、ブランクーシ市場がある。

また、朝だけでなく、夕方にオープンする市場も登場し、忙しいパリジャンに好評だという。ベルシー、ボドイエ、サントノレ(水曜)、アンヴェール(金曜)、ビュルス(火曜・金曜)、サントスタッシュ・レアール(木曜)の市場は、午前中だけでなく、一六時から一九時ごろまで営業している。

観光資源としても、市場は貴重な存在だ。旅の醍醐味は、そこに住む人々の日常生活を垣間見ることにもある。観光客向けの土産屋ではなく、地域に根ざした市場は、地元の人との触れ合いの場となる。市場という開かれた空間は、旅人でも気楽に立ち寄ることができ、その場の雰囲気になじみやすい。

こうしてみてきたように、フランスでは、コミュニティが消滅の危機に瀕し、人々の交流が希薄化していくなかで、住民や商業関係者が「市場」の価値や可能性をあらためて見出し、行政との協働で、市場を盛り上げようとしているといえる。

「マルシェ」はフランスで息づいているからこそ、人を惹きつけるのである。それを単に日本に持ち込んだからといって、地域が活性化するとはかぎらない。

地元に育ぐまれてきた「市場」の真価や課題点を見直すことで、その土地にふさわしい将来像が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

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