パリの市場事情から日本の「市場」を考える 1/2

『専門店』2010年2月に掲載された記事です。

地域に根ざすのは「市場」か「マルシェ」か?

「札幌の円山市場が来年三月末で閉鎖を決定」「マルシェ・ジャポン予算要求取り下げ、サッポロ・マルシェは継続の方針」
昨年十二月、相次いで二つのニュースが飛び込んできた。
明治時代からの老舗市場「円山市場」が、大型店に客を奪われ、経営者らの高齢化もあり、閉鎖を決めたという。
一方、農林水産省の「マルシェ・ジャポン」は行政刷新会議の事業仕分けで廃止と判定されたが、札幌はつづける予定とのこと。
大都市に「マルシェ」を普及させる事業は、昨年夏、札幌の大通り公園でも「サッポロ・マルシェ」として開催された。
「マルシェ」とは、なんのことはない、フランス語で「市場」を意味する。フランス語の響きから、いかにもお洒落なイメージだが、フランスの市場商人がブランド品を身につけているわけもなく。日本の朝市とさほど変わらない、活気はあるがやや雑多な、普通の「市場」である。
大都市・札幌には、「マルシェ」を普及させなくても、すでに多くの「市場」が存在している。札幌の常設型市場とフランスの市場は全く同じではないが、地元で愛されてきた市場が先細りしていくなかで、新たに「マルシェ」を推進する理由はどこにあるのか?
こうした疑問から、あらためて、フランス、特にパリの市場事情について調べてみることにした。

地元住民が集うパリの多彩な市場

私がパリで最初に住んだのはモンジュ通りで、徒歩五分以内に、二つの市場があった。うまい具合に、モベール市場は火・木・土、モンジュ市場は水・金・日に開いているため、ほぼ毎日、どちらかで新鮮な食材を手に入れることができた。
次に住んだコンヴァンシオンも、地下鉄駅の広場とそこから延びる道沿いに、火・木・日の午前中、市が立った。
現在のパリの市場の数は九五で、屋根なしの食料品市場が六九、屋内市場が十三、その他、花の市、鳥の市、工芸の市、のみの市といった専門市場が十三ほどある。
パリで一番小さな市場は、マドレーヌ寺院の近くで開かれる六二メートルのアゲソー市場、反対に、一番長いのは、一三八五メートルのドームニル市場。パリ最大の屋内市場は、東駅近くのサンカンタン市場だ。
パリの市場は多種多様で、ぶらぶら巡るだけでも楽しい。市場は、フランス語の練習にはもってこいの場所でもある。忙しく働く商人たちは、決して愛想よく応対してはくれないが、ちょっとした日常会話を学ぶには役に立つ。
地元の人たちでにぎわう市場は、外国人でありながらも、地域に溶け込んだ気持ちにさせてくれるのが魅力といえる。

一七世紀から続くパリ最古の市場

今回初めて知ったのだが、よく足を運んだモベール市場は、五世紀にシテ島で開業したパリ初のパリュ市場を受け継いだ、伝統ある市場だった。
農林水産省のHPでは、マルシェの歴史として、「五世紀にシテ島(パリ市)で最初の市が始まり、現在のマルシェに至る」と記載されている。
間違いではないが、「現在のマルシェに至る」には、一六〇〇年以上にわたる苦難と試行錯誤の歴史も有しているのである。
フランスの「市場」は、年に数日間開かれる祭り的な大きな市「フォワール」と、朝市のような「マルシェ」がある。
マルシェのほうの市場は、中世からいくつか存在していたらしい。十二世紀には、ルイ六世がセーヌ川右岸に市場を建設し、その周辺に市場が発展していく。
現存するパリ最古の市場は、ブルターニュ通りで開かれているアンファン・ルージュ市だ。一六一五年、街の発展にともない物資供給が必要となり、ルイ十三世の通達により創設された。もともとは「マレの小さな市」だったが、すぐに「タンプルのマレ市」の名で親しまれるようになったそうだ。
この市場の隣には孤児のための病院があり、そこの子どもたちは赤い服を着ていたので、「赤い子どもたち(アンファン・ルージュ)」と呼ばれていた。病院の移転後、一八世紀末ごろから、市場は「アンファン・ルージュ市」との愛称になったという。
一九一二年に、市場はパリ市の管轄となり、牛舎が造られ、十二頭の乳牛が飼育されていた。二年間にわたり地元の人々に新鮮な牛乳を提供していたので、「アンファン・ルージュの酪農工場」としても知られていた。

管理は王権から行政へ、運営は商業者や市民

フランスの市場は、誕生当初から、王権が開設を認可する仕組みだ。ただ、実質的な運営は住民に委ねられていたといわれている。
こうしたシステムは現在でも引き継がれ、市場は行政の管理下におかれている。パリ市のHPにアクセスすれば、場所や時間など市場情報が簡単に手に入る。
市場の経営形態は、行政の直接管理方式と、行政から委任された管理会社などが運営する民間委託方式の二種類ある。
パリの場合、市の直接管理は、花市(テルム、マドレーヌ、シテ)、鳥市(シテ)など七ヶ所、大部分が民間委託方式で、五社の管理会社が運営している。
運営会社はもちろん、そこで商売する非定住商業者も行政のコントロールを受け、非定住商業者は、出店許可の申請が必要だ。二〇〇六年八月一日の調査によると、約九〇〇〇人の非定住商業者が市場で商売をしているという。
パリ市のHPによると、市場は、経済および地域の活性化に役立っているという。市場の特長として、「お金がなくても見るだけで楽しい」「品質の良さ(特に魚介類と乳製品)」「地元の人とのコミュニケーションの場」をあげている。

大型店時代を迎え、市場事情は苦境に

とはいえ、市場もまた、時の流れに翻弄され、生き残りをかけた闘いを強いられることになる。
特に、十九世紀からの近代的な流通システムの出現で、市場の状況は激変することになった。
一八五二年、世界初のデパートであるボン・マルシェがパリに誕生し、それにつづき、プランタン(一八六五)、サマリテーヌ(一八七〇)、ギャラリー・ラファイエット(一八九三)といった百貨店が次々創業した。
これに呼応するかのように、一八七〇年から一九〇〇年の期間、多くの屋内市場が閉鎖に追い込まれたという。それにとって代わり、ジョワンヴィル(一八七三)、エドガール・キネ(一八八三)、プラス・デ・フェット(一八九三)、シャロンヌ(一八九五)、ポパンクール(一九〇三)など二五の露天市場が新設されている。
その後も二〇世紀初頭にかけて、市場は低迷がつづき、屋内市場の閉鎖がつづいた。それを補うために、一九二〇年から一九三八年の間には、ラスパイユ(一九二〇)、モンジュ(一九二一)、ポールロワイヤル(一九二一)、テレグラフ(一九二二)といった露天市場が新しく設立されたという。
さらにその時期、パリ市が多数の集合住宅を建設し、そこの住民のために、ブリュン(一九三三)、ベルティエ(一九三五)、ポルト・ブリュネ(一九三七)、クリメ(一九三八)といった市場を開設した。
第二次世界大戦後には、ダヴー(一九四八)、ヴィレット(一九四九)などが開業している。
市場にとって大打撃となったのは、大型店時代の到来である。一九四八年、パリにフランス発のセルフサービス食料品店が開店し、一九五〇年代からスーパーマーケットが定着していく。
世界有数の大型店カルフールは、一九六三年にハイパーマーケットを創出し、一九七六年にはノーブランド製品の販売を開始した。
こうした急激な大型店の発展は、地元の商店街や中小小売業を脅かすことになったのである。

 

パリの市場事情から日本の市場を考える 2/2
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