イラクでは普通の生活ができないの……と話すイラク人

2006年秋から半年の間、バスラの小児科医2人、ガフランさんとアンサムさんが札幌の病院で研修を行いました。

おおみそかの昼下がり、地下街にあるスタンド・カフェでガフランさんとお茶をした。

「ふふ、見ないで」と笑いながら、彼女はココアのカップに2つも3つも砂糖を入れる。日本のココアは甘さが足りないのがちょっと不満らしい。それでいて、砂糖をたくさん入れるのを見られるのも恥ずかしいようだ。

しばらくして、ガフランさんはテーブルの上の紙コップをいじりながらつぶやいた。

「こうして静かにお茶を飲むことができるなんて、信じられない」

そして、急に険しい顔つきになり、外に視線を投げかけた。数秒して再び顔をこちらに向けた彼女は、優しい目を取り戻し、言葉を続けた。

「バスラでは、こうしてのんびり座っていられないもの。街中危険に満ちているから。発砲の音が絶え間なく聞こえるし、近くで爆発して大騒ぎになることも珍しくないのよ」

ガフランさんの表情は、故郷を懐かんでいるようでもあり、安心しているようでもある。家族のことを思い出しているのかもしれない。

「大人でさえリスクの大きい生活をしているのだから、子どもたちはどれだけ怯えた暮らしをしているか想像できるでしょう」とガフランさん。

イラクでは、子どもたちを外で遊ばせるなど到底無理なのだ。家族が送り迎えして学校へ行ける子どもはまだいいほうだ。わが子の身を案じて、子どもを学校へ行かせたがらない家族も増えているという。

「安心して暮らせる社会が完全に崩壊してしまった。どの国でも最優先されるべき安全が失われてしまったの」

札幌のカフェで耳に入ってくるのは、人々の話声と騒々しいアナウンスぐらいだ。なんてことはない。私たち日本人にとっては、年末の月並みの風景である。

しかし、彼女にしてみれば、“危険のないカフェ”が異常であり、爆弾や銃弾の音が日常生活なのだ。

ガフランさんに返す言葉が見つからない。
カフェで安心してお茶ができる“ありがたみ”など、意識したことがあるだろうか。

微笑みを浮かべ、ガフランさんはしみじみと“静かな幸せ”をかみしめているようだった。かけがいのない貴重な時間を一生分味わっているようにも見える。

こんなささやかな幸せでいいのなら、いくらでもわけてあげたい。

それが無理なら?

私たちにできるのは、こうした日々の幸せに感謝し、次の世代にもそれを受け継ぎ、誰からも日常の幸福を奪ってはならないと伝えつづけること。そして、幸せを奪おうとする者には断固として抗議すること。

イラクの二人は、札幌に着いてしばらくの間、堂々と街を歩くことができなかったそうだ。知らない国だからではない。大手を振って歩いた経験がほとんどないからだという。

彼女たちは10歳のときから、爆弾や銃撃に脅かされてきたのだ。

「札幌に来て一番感動したのは?」と聞かれたとき、「自由に歩けること」とアンサムさんは答えた。

「最初はとても怖かった。みんなが普通に歩いているのが不思議だったわ。外を歩いても大丈夫だとわかったときは、とてもうれしかったの」

アンサムさんの趣味は散歩だというが、イラクでは思い存分楽しめない。

札幌では、彼女は時間があると歩いていた。待ち合わせのときも、いないと思ったら、外を歩いている。歩くのが楽しくて楽しくてしかたがないという様子だ。

雪をはじめてみる彼女たちにとって、雪道はずいぶん歩きにくいに違いない。気温も経験したことがないほど低く、寒さが身にしみているはずだ。それでも、歩けるときは歩く。

「今回のイラク戦争は、治安悪化というオマケをつきつけただけ」とアンサムさんは嘆く。

「どこで爆発するのか、全く予想できない。爆弾を避ける方法もありません。私たちは偶然生き残っているの。通り過ぎたすぐ後に爆発することもめずらしくないのだから。私が歩いた10分後に爆発したこともあったわ。誰もがケガをする可能性があるのよ」

私たちはテレビや新聞でイラクの惨状を見ることはできる。イラクが危険であることは一目瞭然だが、彼女にとっての現実は、私にとってはバーチャルな世界でしかない。爆撃の話を聞いても、恐怖を共有するのは難しく、たぶん、実際の脅威の何分の一しか実感できないのではないか。

「普通の生活ができないの」

この言葉の重さを、“普通”に慣れてしまっている日本人はどれだけ理解できるのだろう。

(2007年1月30日)

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