仏領インドシナで日本軍がフランス人女性に性暴力か?

フランスの歴史雑誌『Historia』の1972年の別冊「インドシナ戦争特集号」(Notre guerre d’Indochine)に、1945年3月の日本軍によるフランス軍奇襲攻撃”明号作戦”について掲載されています。

古本屋で雑誌を入手したので、ほんの一部抄訳を紹介します。

フランス側に立ち、日本を批判するために書いているのではありません。あまり知られていない史実かと思い、アップしました。

タイトルは「Le coup de sabre dans le dos」(背中に軍刀の一撃)。
寄稿者は、フランス海軍大佐のジャック・ロマン=デフォッセ氏。彼は、外人部隊落下傘部隊の隊員で、インドシナに12年間赴任。1945年3月9日にもインドシナに滞在しており、明号作戦後に中国へ逃れたそうです。

簡単に明号作戦までの状況について。

フランスは、現在のベトナム、カンボジア、ラオスを保護国化し、1899年に仏領インドシナ連邦を成立しました。
1940年5月にフランスがドイツの占領下におかれたのを機に、日本は1940~1941年にかけて仏印進駐し、仏領インドシナの一部を占領します。

たまたまフランス大使館のホームページに次のような説明がありました。

ヴィシー政権は、日本の軍事的優越を認め、仏領インドシナの占領を許さざるを得ませんでした。真珠湾攻撃の直後に、フランスは対インドシナ支配を保っていくために、インドシナの大東亜共栄圏への所属を受諾する以外に道はありませんでした。それ以来、インドシナに対する日仏両国の共同支配が3年以上続くことになりました。

日本陸軍はフランス軍の兵営内に駐留し、「共同植民地支配」することになります。
協力関係を破ったのが、1945年3月の明号作戦です。


1945年3月9日、18時50分、ハザン。第三区管轄軍司令官のムレ少佐は、自宅の居間で、6人の士官に取り囲まれ、妻とともに、沢野(源六)少佐 の訪問を待っていた。

その前日、沢野少佐は、3月9日19時に日本軍兵営での晩さん会に参加するよう、フランス人将校を招待した。しかし、ここ数週間の状況があまりにも悪化しており、ムレ大隊長は猜疑心から、逆に沢野少佐に、将校たちとともにムレ大隊長の自宅で食前酒を、と招いた。

ところが17時に、ムレ少佐はトンキンのフランス理事長官から、日本軍の攻撃が迫っていることを告げる電報を受け取った。彼はすぐに駐屯部隊のうち半分に警告を発令し、そして今、(沢野少佐らの)訪問を待っていた……。脅威に包まれ重く、息苦しい雰囲気である。

裏切り

18時55分。沢野少佐が将校たちを伴い、軍刀に手をかけて、入ってきた。直立し、かかとをそろえ、日本風に深くおじぎをした。それから、微笑みを浮かべ、フランス軍とは良好な関係でありたい、と述べた。
グラスが配られた。日本人将校がフランス人将校と向き合ってそれぞれ立ち、グラスを上げて乾杯した……。

19時。沢野少佐は突然、疲れたと言って外へ出た。ムレ少佐は2階へ上がり、兵舎に電話をかけた。

19時5分。突然電気が消えた。日本の将校がそれぞれ目の前のフランス人将校に飛びかかった。日本の小隊が不意に現れ、夜のうちに邸宅を取り囲んだ。
ジョリー大尉とヴァン・ダン・アッケール中尉は動く間もなく、撃ち殺され、クルビエール軍医少佐、ヴァイアン大尉、ヴィレ見習士官は捕らえられた。ケレヌール中尉は抜け出し、ムレ少佐と上階で合流した。拳銃を手にし、日本兵をそれぞれ撃った。

同じ時間、町で一斉射撃がはじまった。フランス兵営の敷地内で日本兵営を遮っていた竹のパネルが倒れ、900人の日本兵がわめきながら、建設中の要塞を襲撃した。彼らは榴弾で攻撃し、火を放った……。

邸宅では、彼らの前に押されながら、ムレ夫人が5か月の赤ん坊を抱きかかえ、縄で半分絞めつけられて駆けていき、日本兵が階段を登っていった……。

要塞と兵営のなかで、戦闘が激しく繰り広げられた。200人のヨーロッパ人およびインドシナ人が粘り強く戦った。

明け方3時に、日本兵は要塞の上層部分の占拠に成功した。日本兵は銃眼の前に土を崩したり、捕らわれた捕虜の身体をすえたりして、銃眼を遮った……。

夜が明け、日本人は要塞内の堡塁の砲眼から、そして、壁が崩壊した兵営の上から、真正面に大砲を撃ってきた……。

邸宅では、4人の日本兵を撃ち倒したムレ少佐とケレヌール中尉が、屋根裏部屋で捕まった。しかし、要塞では、火の勢いが弱まり、弾薬が尽きていた。あっという間に防衛側は最後の弾薬筒を燃やし果たしてしまった。

朝7時、フランス人たちは降伏しなければならなかった。植民地移住者、外人部隊の兵士、原住民歩兵70人が殺害された。それより多くの人が負傷した。250もの日本兵の死体が戦地に散らばっていた。

裏切りの後に、恐怖が訪れた。

フランス人女性の大部分が、怒り狂った無法者の日本兵士の群れに連れて行かれた。女性たちは公衆の面前で、体を奪い合う野蛮な集団に強姦された。

武装した100人以上の捕虜が殺戮された。44人はシャベルとつるはしによる一撃で殺害され、残りの人たちは河岸に連行され、そこにはフランス人女性たちを先頭に、現地住民が集められていた。フランス人たちは、機関銃を構えた日本人の国粋主義者によって射殺された。

R曹長は一晩中殴られた。彼は、膝の関節に木の棒をはさんで絞めつけ、屈折させられ、関節は砕けた。彼の目の前で、彼の妻が何十人もの日本兵に強姦された。そして、妻の前で、彼は殺された。

降伏する時点で、何人かの兵士が、そのうち多くが負傷した状態で、密林に逃げることができた。しかし、放心した日本兵が彼らを追跡した。逃げた者たちは疲れ果て、ほとんど全員捕らえられ、殺された。

放心した日本兵のひとりが、下士官の妻と娘を縛って引きずってきた。日本兵は休憩時間のとき、「彼女たちを好き勝手に弄んだ」。彼女たちは逃げようとしたが、軍刀で首を斬られた。

(2019年10月10日)

 

紛争時の性暴力撲滅に逆行する日本の「慰安婦」問題
旧陸軍兵士に監禁されたフランス人女性2人が性暴力が明らかに。日本は「慰安婦」を否定しているが、世界的には紛争時の性暴力の撲滅を目指す国際的な動きが活発化している。『The Japan Times』2015年3月5日に掲載された記事の邦訳。
悍ましい過去は消えない…元「慰安婦」たちの声より
2014年5月末に来日した6人の元「慰安婦」は、河野談話後に発見された関連公文書等529点を内閣府に提出した。元「慰安婦」たちは、涙ながらに悲惨な体験を話し、「2度と戦争をしてはいけない、私たちのような犠牲者を出してはいけない」と訴えた。

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「慰安婦」は世界の性暴力被害者救済の原点『日刊ベリタ』2008年6月28日
「少女像」作家が来日講演――日韓合意の「撤去」批判 金曜アンテナ『週刊金曜日』2015年3月4日号

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