悍ましい過去は消えない…元「慰安婦」たちの声より

2014年5月31日から6月2日にかけて、「慰安婦」問題解決を考える「第12回日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」が開催され、6人の元「慰安婦」が来日しました。
安倍政権の「戦争のできる国」への暴走にストップをかけようと、急きょ東京での開催が決まったそうです。

6月2日、日本政府への提言とともに、強制性を証明する資料、および河野談話後に発見された日本軍「慰安婦」関連公文書等529点を、内閣府に提出しました。
元「慰安婦」たちも立ち会いましたが、門前での受け取りという、非常に失礼な対応でした。

元「慰安婦」たちは、涙ながらに悲惨な体験を話し、そのなかで、「2度と戦争をしてはいけない、私たちのような犠牲者を出してはいけない」と訴えました。

以下、元「慰安婦」の声です。

スリ・スカンティさん(インドネシア、79歳)

「自分の身に起こったような悲惨さを、誰も2度と経験しないことを望みます。私は、日本政府に、この国の犯した犯罪の責任をとっていただきたいと思う。世界のあらゆるところにおいて、こうしたことが再び起こらないように、そう思うのです」
小学校2年生の9歳のとき、村長が付き添い、日本兵に2人やって来て、力づくで連れ去られた。その夜、オランダ人の住居だった館の2階で、オガワという軍人に、あたかも人形のように扱われた。風呂に入れられ、髪を洗われ、おしろいを塗られ、服を着替えさせられた。翌朝まで少なくとも6回、レイプされた。
幼い私の膣からは大量に出血し、「お母さん、お母さん」と痛みをこらえて、泣き続けた。翌日の夜、部屋に鍵をかけられ、監禁された。3日後、またオガワにレイプされ、家に戻された。下腹部の出血の治療には1か月かかった。
小学校に戻ったが、学友や先生から、「サルの使い古し」(日本兵に手をつけられた女)と嘲られ、学校をやめた。生殖器官の損傷で、子どもができなくなった。マッサージ師など、さまざまな仕事をしているが、治療費をまかなうのに十分ではない。

ミンチェさん(インドネシア、86歳)

「人前で話すのははじめて。話を聞いてくれる人がいると聞いたので、はじめて体験を語ることにした。胸の痛みは消そうと思っても、気づかないうちに思い出している。日本人にあんなことをされなければ、不幸にはならなかったのに。苦痛は今もつづいている」
14歳のとき、トラックに乗せられ、日本軍に連れ去られた。そのとき、母親が父親の目の前で、日本軍にレイプされ、私もそれを見ていた。
慰安所では1日4人の男性の相手をさせられた。6か月そうした生活がつづき、耐えられなくなり、すきを狙って逃げた。
近所の人が助けてくれて、男の格好をして、車で送ってくれた。家に戻ると、母親は温かく迎えてくれたが、親せきに「お前は恥だ」と受け入れられなかった。
家を出て、知り合いを頼り、お手伝いさんの仕事をして生活した。

エステリーダ・ディさん(フィリピン、83歳、1993年に名乗り出る)

「安倍首相は、慰安婦問題について『強制連行した証拠はない』と言っているが、それはまったくのウソだ。証拠はある。私がそうだ。
今でもその当時のことを思い出すとやりきれない。二度と若い世代に同じようなことが起きないよう、戦争だけはとめてください」
1942年11月ごろ、12歳のとき、いつものように、家でとれた野菜、鶏、卵などを市場に売っていると、日本軍のトラックがやってきて、日本兵が町にいた人々をつかまえはじめた。ゲリラとみなされた人たちを集め、井戸の近くで殺していった。
日本兵は私の髪の毛をつかみ、トラックに乗せ、駐屯地に連れて行った。そして、部屋に入れられ、複数の日本兵が順番に私をレイプしていった。2週間にわたり、毎日レイプされつづけた。
家に帰ると、両親は非常に驚いた。すでに私は殺されたと考えていたからだ。
戦後再び学校に戻ったが、故郷で生活がしづらくなり、日本軍から被害を受けたと知られたくなかったので、マニラに出て働こうと決心した。
結婚したが、夫に被害について話すことはできなかった。被害のことは誰にも言わずに過ごしてきたが、1992年、正義を求める闘いに加わるべきだ、と決心して、名乗りでた。

宗神道(ソン・シンド)さん(韓国生まれ、91歳、日本在住の唯一の名乗り出た被害者)

「安倍晋三にしゃべることって、あるっぺ? 全然わからないんだから、しょうがない。戦争はしちゃいけない。91歳になるババアがまだ死なないで生きてるからね。本当に情けないよ。国民が安心していくには、政治家たるものがちゃんとしていかないと」
16歳のとき、母親の決めた結婚が嫌で婚礼の夜に逃げ出し、「戦地に行けば結婚しなくても生きていける」と言う朝鮮人女性についていき、武昌で慰安婦となる。
何度か妊娠と死産を繰り返す。「結婚して日本に行こう」という日本兵の言葉に騙され、日本へ来るが、「進駐軍のパン助にでもなれ」と捨てられる。上野駅で東北本線に身を投げたが、一命をとりとめ、救ってくれた人から宮城県女川在住の在日朝鮮人男性の飯場に案内される。その男性と1982年まで同居し、1992年に東京地裁に提訴。
3.11で家が津波にのまれ、現在は東京で暮らす。
(ご高齢で参加無理だと思っていたが、一目だけでもみんなに会いたい、ということで、この日参加されたとのこと)

金福童(キム・ボクトン)さん(韓国、88歳、1992年に「慰安婦」と名乗りでる)

「強制されたのに、お金が欲しいのだろう、と言われるのが悔しい。賠償はお金がついてくるだろうが、そういうお金はいらない。安倍首相に過去を謝罪してほしい。ハルモニたちが死ぬ前に。罪は憎んでも人を憎んではならない、という言葉がある。過去をすべて謝罪すれば、親しくすることができる。(私たちの訴えに)何も答えてくれないのが残念。日本のみなさんにも協力してほしい。安倍首相は1日も早く反省してほしい。過去を清算しないで、戦争ができる国にしようなど、言語道断である」
14歳のとき、軍服製造工場で働くと言われて連れて行かれたが、台湾を経て、広東で慰安所に入れられる。5年間、性奴隷となる。

李容洙(イ・ヨンス)さん(韓国、86歳、1992年に名乗りでる)

「名乗り出てから22年になる。私には何の罪もない。私たちは毎週、雨が降っても、雪が降っても、ソウルの日本大使館の前で、『賠償せよ、謝罪せよ』と叫び続けている。
私たちはなぜ、それをしなければならないのか。日本のほうから謝罪しに来るべきだし、何も言わなくても賠償するべきではないか。
安倍首相がいつも暴言ばかりして、解決しないでいる理由は何なのか? 私たちハルモニたちがみんな死ぬことを待っているのか。
安倍首相に言いたい。今でも遅くないので、親孝行をしてほしい。あなたにもお母さんやおばあさんがいると思う。世の中のお母さんやおばあさんを自分のお母さんやおばあさんだと思って、孝行するつもりで、私たち被害者に接してほしい。
どうか、平和的に解決するようにしてください。目をしっかり開いて、きちんと現実を見てください。韓国と日本が手をとって、平和的にいけるようにしてください。安倍首相はまっとうになってください。日本のみなさんも平和的に解決することを望んでいるのではないでしょうか?」
15歳のとき、夜、軍人が家にきて、台湾の慰安所に連れて行かれる。「絶対入らない」と抵抗したが、髪をつかんで部屋に入れられた。私は自分の身にどんなことが起こったのか、よくわからなかった。
65歳になったとき、日本軍に被害を受けた人は届け出るように、と聞いた。最初は恥ずかしかったし、怖かったが、勇気を出して名乗りでた。

曹金愛(そうきんあい)さん(趙潤梅さんの養女)

「歴史は歴史であり、事実は事実である。否定することはできない。私は中国と日本はもっと友好的であるべきだと思う。日本政府は、最終的に被害者の満足のいく答えを出してくれると信じている。私は山西省のすべての女性被害者を代表し、ここにいる方たちに心から感謝を申し上げたい。そして、中国と日本の次の世代の友好のために、基盤をうちたてるために、ともに努力していきましょう」
1941年4月の朝、私の母は17歳のとき、無理やり河東村へと連れて行かれた。そこでは毎日、昼も夜も、彼らの奉仕をさせられ、食事もろくにとることができず、トイレに行くこともできず、40日あまり苦しめられた。身も心も虐げられ、母の精神は異常をきたすことになった。
36歳のときに私を養女として引き取った。98年に裁判を起こし、ようやく彼女の心が晴れたが、裁判は失敗に終わる。ショックを受けた母は神経病が再発し、それ以降よくならず、2008年に残念な気持ちを抱いたまま世を去った。

(2015年5月5日)

 

紛争時の性暴力撲滅に逆行する日本の「慰安婦」問題
旧陸軍兵士に監禁されたフランス人女性2人が性暴力が明らかに。日本は「慰安婦」を否定しているが、世界的には紛争時の性暴力の撲滅を目指す国際的な動きが活発化している。『The Japan Times』2015年3月5日に掲載された記事の邦訳。

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「慰安婦」は世界の性暴力被害者救済の原点『日刊ベリタ』2008年6月28日
「少女像」作家が来日講演――日韓合意の「撤去」批判 金曜アンテナ『週刊金曜日』2015年3月4日号

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