思想や言論、表現の自由を奪う治安維持法。
戦時中、北海道・旭川市では、美術部の美術部の教師および学生が弾圧されるという生活図画事件が起きた。
「20歳前の少年が、共産主義も知らない、資本論も読んだことのない、自分で言うのもおかしいですが、純真無垢な少年が、当時の師範学校に入り、絵が好きなもので、美術部に入った。その美術部員が、一連の綴方事件、それから恩師の逮捕に関連して、学校および軍にマークされ、ひいては、1941年9月20日に、寄宿舎で寝ている寝端を検挙されまして、逮捕状をつきつけられて、投獄されました」
そう語るのは、旭川師範学校(現・教育大旭川校)の生徒だった菱谷良一さん(97)。
菱谷さんは、1936年4月、旭川師範本科に入学した。
「たまたま小学校の先輩が美術部で、『お前入れ』と言われ、素直だから入ったの。小学校のとき絵が得意で、毎回、学校の運動場とか教室に掲示されました。作文も上手だった。うぬぼれはしないんだよ」
旭川では、旭川師範学校の熊田満佐呉教員と旭川中学校の上野成之教員の指導で、現実のままにリアルに生活を描く生活図画という美術教育が行われていました。
「熊田先生は、美術の技術的なことは、そんなにうるさく言わなかった。先生の美術教育の理念には人間形成というのがあり、ものを正しく見る姿勢を説いた」
「絵ばかり教えるのではなく、芸術家、美術の歴史、絵に関する演劇や音楽も勉強しました。先生は音楽が得意だったから、レコード鑑賞もよくやりました。美術の情操教育ですね。自分はどちらかというと音楽が好きで。そのときに聴いた音楽のメロディーとか、おおかた忘れちゃったけど」
旭川師範学校は全寮制で、寄宿舎が5~6軒あった。菱谷さんは、中央の一番大きな寄宿舎に卒業までの5年間暮らした。小さな寄宿舎のほうがより家族的な雰囲気で、寮生たちが集まってレコード鑑賞会などをしたという。
入学の翌年、1937年7月7日に盧溝橋事件が起き、日中戦争がはじまる。
「急に軍国主義になり、学校もそうなりました。日本中、戦争の態勢だった。大帝国日本オンリー」
旭川市内には、大日本帝国陸軍第七師団があった。
「時代遅れの感じだけど、菅笠かぶって、寄宿舎から旭川七師団の演習場へ何キロも行進して行く。現場では、春光台の整備、灌木を刈って。真夏の炎天下、夏休みを返上してやった。ときどき隠れて、小休止などしたけどね」
1940年、戦時体制が強まるなかではあったが、菱谷さんらは修学旅行で東京に行き、旭川では経験できない刺激を受けたという。
「熊田先生の影響で、新協劇団にみんなで行ったんだ。私だけひとりグループからはずれて、翌日行った。配役に小沢栄太郎がいてね。チャンバラではない新劇というものをはじめて知ったよ。旭川にいると、新劇を見る機会がないから」
「それから、神田に古本屋の端から端まで一軒一軒回って、こずかいで古本を買って、木箱に入れて送った。旭川の親は、お土産だと思って開けたって。でも、その本は、検挙されたとき、いっさいがっさい持っていかれた。裁判で有罪判決を受け、全部破棄された。それ以来、あまり本を買わない。そんなことないだろうけど、またとられると思うから。戦後は図書館を愛用して、毎週本を借りています。100歳近くなるけど、まだ本が好きで、毎日読んでいる。最近白内障の手術をして、メガネをかけないでも本を読めるんだ。残念なことには、耳が遠くなって、音楽会がつまんないのが悔しい」
絵画だけでなく、この当時、日常生活で感じたことを作文に書く綴方教育も盛んだった。
しかし、北海道では、1940年11月と1941年1月に、北海道綴方教育のグループ50数名が検挙される。
旭川師範でも、熊田満佐吾も検挙され、菱谷さんら美術部員が取り調べを受けた。
「綴方事件のあった翌日、学校当局はどういう規準か知らないが、我々を引っ張り出して、マーク、赤丸をつけた。そして、軍部の横ヤリだろうけど、明日あさって卒業式なのに、もう一年留年させる、と」
1名は退学、菱谷さんをはじめ5年生5名は留年となり、精神教育を強いられ、反省生活を課された。
「留年して欝々しているときに、東京文理大の哲学科を卒業した菅季治先生が新任になってね。天皇や国家に抗うようなことを堂々と言う先生だったから、くすぶっていた私たち学生には救いの神のようで。先生の下宿にわざわざ行っては、本を借りました。でも、私たちが検挙された9月に、先生は学校を辞めて、内地に転居しました」
少し話は飛ぶが、菅季治は満州に出兵し、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留され、収容所でロシア語の通訳をつとめた。帰国後、在外同胞引き揚げ妨害問題で国会の喚問をうけ、国会で証人訊問を受けることになる。精神的に追い詰められた菅は、1950年4月に鉄道自殺した。菱谷さんはこの事件をニュースで知ったが、「あの先生だとは思わなかった」と言う。
生活図画事件は、1941年9月20日にはじまる。旭川師範の留年組5名や卒業した部員、および旭川中学美術部員を含む25名が検挙されたのだ。
「同級生5人が寄宿舎から拘引され、特高の取り調べを受けました。私は共産主義ではなく、ただ絵が好きな少年だったのに、当時の特高は、挙げた以上は全部おぜんだてして、私を立派な共産主義者にして、偽りの自白書を作りあげました」
当局が目をつけたのは、菱谷さんの絵画のなかに描かれていた本。
「岩波文庫のつもり。これが当局に検挙されたときに、『この本はマルクスの資本論だ』と。資本論なんて知らないんだよ。なのに、これが有力な証拠になるって」
菱谷さんは、その絵画、1940年の絵画展に出した『話し合う人々』が唯一の生活図画らしい絵だった。
「生活図画は、レコード鑑賞とか談笑とか、勤労奉仕、学校行事とか、生徒の生活をありのままに描いていた。静物とか、部屋の同級生の肖像画とか風景とかが好きだけど、私もそういう絵を描かなければならないという義務感というか。生活図画らしく、読書している絵を描いた。少年たちは私の部屋の下級生。彼らは早く勉強したいのに、いやいや引っ張りだして絵画のモデルのようなことをやらせたんだ。私の生活図画の作品はこれ1点。資金が乏しいから、やっと30号のキャンパスを買ってはじめて描いたの」
菱谷さんは、共産主義を信じて実践したと自供するよう恫喝され、でっち上げられた調書に捺印させられた。そして、1年3ヶ月、旭川刑務所の独房に投獄される。
「北海道の厳寒、零下30度の独居に閉じ込められ、凍死寸前までいったことも。生きているのが不思議なぐらい。独房では誰とも会わない、話さない。実家は刑務所のそばだったんだ。親兄弟は週に何日か、塀の前を通って銭湯に行く。おふくろは、あの塀の中に息子がいる、と思い涙をこぼしていた。そう妹が教えてくれた。親不孝だね。獄中で何よりも辛かったのは、親兄弟にそういう思いをさせたこと。親に対して申し訳ないという反省と、肉体的苦痛ではなく精神的な苦痛で、純真な少年の胸はしめつけられた」
旭川師範の学生は、1942年12月26日に仮釈放される。
「御用納めの日、『これで終わり』と。1年間獄中生活していたから、一種の虚脱状態。正月も家でボーっとしていたよ」
「2月11日の紀元節は、昔、日本の重要な祝日。『今日は日本の記念すべき日だ』と、日本について考えた。日本では、天皇陛下が、国民を大御宝として慈しむというのが建前ではないか。その天皇陛下が、日本国民、この純真な少年を1年3か月も刑務所にぶちこむというのは何てことだ、と。そのとき、ムラムラと怒りがわきあがり、その胸のモヤモヤを絵具で一気に描いた。キャンパスではなく、板に描いたのがこの絵。技術からすれば幼稚だけど、渾身のほとばしり。怒りの表現」
菱谷さんの出所第1作の記念すべき作品が、『赤い帽子の自画像』だ。
「私をアカ呼ばわりした。だから、妹の赤い帽子をかぶって、精いっぱいの皮肉」
仮釈放されたものの、1943年秋に裁判が行われ、菱谷さんは有罪判決を受ける。
「執行猶予はつきましたが、懲役1年6か月。非国民と批判され、1年間は息を潜めて過ごしました。1日も早く戦争に行って、その苦しみから逃れたい、と考えたときもあった」
敗戦の2ヶ月後、1945年10月に、GHQによって治安維持法は廃止された。制定から20年間で弾圧犠牲者は数十万人にも上るといわれている。
当初は共産主義運動への適用とされたが、その範囲は拡大し、知識人や宗教家をはじめ、反戦や民主主義を求める一般市民もその対象となり、表現の自由を奪われ、取り締まりを受けた。
日本政府は現在にいたるまで、治安維持法の犠牲者への謝罪と賠償を行っていない。
「私は治安維持法の犠牲者の証人。治安維持法という法の下に、嫌というほど痛めつけられた。それは生涯消えない傷。そういう世の中にしてはならない。共謀罪がでてきたとき、私は憲法学者や法律家ではないけど、直感で、治安維持法と同じじゃないか、と思った。衣を変えて、また出てきたんじゃないか、と」
「一般の人には何も関係ない、変なことを考えて共謀した奴はつかまる、ときれいなことを言っているが、昔、治安維持法はそういったんじゃないか。こういう法律はあってはならないし、こういう法律で不幸になってはならない。つぶすよう努力してほしい。これが年寄りの私の最後のお願いです」
芸術と憲法を考える連続講座「『表現の自由』が奪われた時代を生きて」(2019.年5月14日)、戦前の治安維持法の犠牲者に対する謝罪と国家賠償を求める国会請願・院内集会(2019年5月15日)の講演より
(2019年11月30日)