3癌併発の福島原発作業員の労災・賠償訴訟で証人尋問 3

札幌地方裁判所で2020年9月15日、福島第一原発事故現場で復旧作業に従事し、3つのがんを患った札幌の元作業員の証人尋問が行われた。男性は、東電など3社に損害賠償を求める民事訴訟と、労災不支給取消を求める行政訴訟の原告であり、この日は、2つの訴訟の証人尋問となった。

※なお、2021年5月13日、札幌地方裁判所はこの2つの訴訟の請求を棄却した。
原発がれき撤去作業員訴訟、国や東電の責任認めず 札幌地裁『週刊金曜日』(2021年5月31日)

重機オペレーターのYさんは、大成建設の第二下請け業者マイタックから派遣され、2011年7月4日から同年10月31日までの約4カ月間、福島第一原発構内のがれき撤去業務に従事した。

主な作業内容は、操作室を設置したトラックを現場に停め、遠隔操作で重機を動かし、がれきを撤去するというもの。

操作室は、重機オペレーターは3名、各所に設置されたカメラの遠隔操作を行うカメラオペレーターが1名、班長および残り3名は待機という班員8名体制。

Yさんは、この重機オペレーターとして雇用された。「操作室に8台ぐらいのテレビがあり、画面を見ながら、ハサミで挟んだり、積んだりする」のがYさんの仕事だった。

前回の被告側証人Sさんは大成建設の一次下請けの山崎建設の従業員で、作業期間は、Yさんとほぼ同じ2011年7月3日から11月2日まで。

Yさんの証言は、前回のSさんと、いくつかの食い違いがあった。

二人が証言した主な作業は、「通路のがれき撤去作業、および、タービン建屋の扉部分の破損物排除など」。

震災で全電源が喪失し、原子炉の冷却が不能となり、外部から消防車などにより注水作業が必要になったが、原発構内はがれきや鋼材で覆われ、原子炉建屋まで車輌が通行できる状態ではなかった。そこで、1号機から6号機までの通行路を確保するため、緊急のがれき撤去作業が行われた。

Sさんは、「がれき撤去作業は、ステップ1とステップ2があり、自分たちはステップ2で入った」と証言。ステップ1は、放水のための緊急車両が入る通路をつくるためのがれき撤去で、ステップ2は通路脇のがれき撤去だという。

しかし、Yさんは、「工事の内容は、無人施工でのガレキの撤去だと聞いていたが、ステップ1、2という表現はわからない。緊急車両が入る道路も確保されていなかった」と述べた。「アスファルトがむけていたので、砂利をまいて鉄板を敷く。突起を除去する作業」だったと言う。

通行路の確保作業が一通り終わった9月頃には、タービン建屋のなかに遠隔操作の機械などを入れるため、4号機の鉄製の扉をこじあけるという作業を行った。そのあたりに散在していたがれきを撤去したという。

Yさんも、「壁にコンクリートがへばりついていた。ドアを撤去するときは、ちょうつがいに重機のハサミを差し込んで、切断して運んだ」と述べた。

作業はA班とB班の2班がシフトを組んで行われ、Sさんは所長とA班班長を兼務した。

YさんはB班に所属し、B班の班長は別の人だったが、「自分の認識として、班長はSさん」と言う。一方、Sさんは「A班の班長として現場で作業を行ったが、B班の作業をつねに見ていたわけではない」と証言している。

放射線教育

Yさんは、マイタックから同原発構内のがれき撤去の仕事を持ちかけられた際、一度は断っている。「テレビで放射能問題についてやっていたので、怖くて断った。家族は反対したが、マイタックから『行かないと辞めてもらう』といわれた」と言う。それまで、原発で働いたことはなく、被ばくの経験もなかった。

Sさん同様、Yさんも、「作業に入る前に、放射線の危険について教育を受けた」と証言する。「ぶ厚い問題用紙と答案用紙を講師が読み上げた。放射能の危険性は、理解するのが難しく、わからなかった」とYさん。

被告代理人(山崎建設)が、「テスト結果は85点、80点となっている」と指摘すると、「点数は知らない。受かるように問題集と答案用紙を読み上げる。誰でも受かる」とYさんは答えた。

屋外作業

Yさんは、「マイタックから屋外作業について聞いていなかった」が、「現地に入り、みんながやっていた。断ることはできなかった」と証言。

屋外作業は、カメラの移動や高さの調整、レンズ拭き、ケーブルの敷設、さらに、手作業でのがれき撤去やメンテナンにおよんだ。

「カメラの上下の調整に技術はいらない、誰でもできる」とYさん。「ケーブルの敷設は3時間で終わらないときもあり、そのときは次の班が引き継いだ」

屋外作業の指示は、「班長のSさんが出した」という。

Sさんは、「班長は、作業前に現場の空間線量を測り、その日の作業時間を決めた。各作業員の累計線量を把握していたので、特定の人に被ばくがかたよらないよう屋外作業は分担した」と証言していた。

しかし、Yさんは「それは違うと思う。誰がやるか、そのときそのとき」と述べた。

手作業でのがれき撤去

「狭い場所のがれきは、機械でとれない」ため、「竹ぼうきで掃いたがれきを、スコップで重機のコンパネに入れる」といった手作業で処理した。

「30~40㎝ぐらいの大きさのがれきを両手で抱えて、運んだときもある。放射能が高くても、断れない。みんなやっていた。1ミリシーベルトだから大丈夫といった説明はなかった」とYさん。

Sさんは、「タイベックが破れる恐れがあるので、大きいがれきはやっていないと思う」「鉛のチョッキは全員分がなかった」と述べたが、「抱えてもタイベックスは破れない」「手作業の際は、鉛のチョッキを着ていた」とYさんは主張した。

手作業は2回以上、少なくとも4カ所で行われたという。Yさんは手作業した場所を地図で示した。
「1~4号機だけでなく、5~6号機でもやった。爆発で吹き飛んだ窓枠とサッシは、サイズが大きく、手で拾って運んだ」とYさん。

「1日で終わらないときもあった。飛び散ったがれきがたくさんあった場所では、3日ぐらいかかった」

線量が高いがれきは、赤のペイントで☓(バツ)がつけられ、線量がシーベルトで記されていた。

「マーキングされた場所は、立ち入り禁止になっていたので、危険な場には立ち入っていない。ただ、その近辺に飛び散ったものは手作業で集めた」とYさんは言う。

ここでYさんは、質問する被告代理人(山崎建設)に「もうひとつ、言ってもいいですか?」と尋ねた。「聞いていないので、次にいきます」と拒否されるが、あらためて原告代理人に「何が言いたかったのか?」と問われ、こう発言した。

「大成建設の所長が、がれきを手で拾っているのを見た。テレビ画面をズームしてもらい、背中に書いてある名前を見た。所長自らやっているので、みんなで行かなければ、と思った」

重機のメンテナンス

重機のメンテナンスに関し、Yさんは、「硬いものを切断して、切れなくなったり、歯が欠けたときに、グラインダーで削って磨く。週1回とは限らない」と述べ、Sさんの証言とほぼ一致した。ただ、メンテナンスの場所について、Sさんは一箇所、Yさんは複数の場所と意見が異なった。

線量計の警報が鳴った場合

屋外作業では、ADPが作業中に鳴ることもあった。「本当は、線量の低い場所に退避するのだが、そのまま作業した」と、YさんもSさんと同じ内容だ。

線量計を外しての作業

Yさんは、「線量を多く浴びたら、現場から出されて作業に支障がでると思って、APD(警報付きポケット線量計)をはずした」と証言した。「交代要員もいないと聞いた。(一定の被ばく量を超えると)みなに迷惑をかけるから、はずした」という。

「(首元から)APDのストラップをはずし、テレビの裏に隠した」

APDをはずすのにかかる時間は2~3分。はずした回数は、労基署の供述調書では4回、訴訟の陳述書では7~8回となっており、Yさんは「いろいろな人に迷惑がかかるから、4回と少な目に言った」と述べた。

Yさんは、自分がAPDをはずしたときに、「操作室に2人ほどいた。SさんもAPDをはずしたと聞いている」と言うが、Sさんは「はずしたことがない」と否定し、「操作室は狭く、はずしていればわかる。隠す場所もない」「訴訟後に確認したが、はずした作業員はいなかった」と証言している。

被ばく線量管理

作業が終了したら、ADPを免震重要棟(免震棟)に返却した。そこで、その日に浴びた線量を記したレシートを受け取ったという。

Sさんは、ADPの数値を作業週報に書き込むと証言したが、Yさんは「作業週報ではなく、別の用紙」と述べる。

被告代理人(山崎建設)に作業週報の7月4日の欄を見せられたYさんは、「名前は自筆だが、作業内容と時間、数値は自分の字ではない。数値を記載した用紙は、作業週報ではない。時間、内容は記載していない。誰が書いたのか、わからない」と答えた。

Yさんが作業を開始したのは7月。

「辛かった。マスクはゴムバンドになっていて、曇らないように両方でしばってつけ、タイベックの上からテープで止める。曇ると前が見えなくなるので、きつくしばって、がまんしていた。下あごに汗がジャブジャブたまった」とYさん。

「暑いので熱中症が怖かった。大成建設の所長は、新規入所した8人に向かって、『一人でも熱中症になったら、全員帰ってもらう』と言っていた。トイレに行けない、水が飲めない、免震棟にはシャワーも風呂もない。他の人もみな苦しんでいた」

Yさんは、いわき市の宿舎に3週間ほどいて、7月31日に広野町の岩沢荘に移り、10月31日までここに宿泊していた。宿泊地の広野町は緊急時避難準備区域だったため、住民はおらず、店もなかった。

「風邪を引いて、熱が出て、喉が痛いとき、岩沢荘の経営者に聞いて、病院に行った。東電、大成建設は、体調管理をしてくれなかった」とYさんは言う。

「免震棟には、『作業員の皆様、命を顧みず来てくれてありがとう』と書いてあった。それなのに、自分ががんを発症しても、東電や大成建設に『知らない』と言われるのは、悔しい」

(2021年3月16日)

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