3癌併発の福島原発作業員の労災・賠償訴訟で証人尋問 1

2019年11月22日、福島第一原発事故現場で復旧作業に従事した札幌の元作業員が、労災不支給取消と、東電など3社に損害賠償を求めた2つの裁判の証人尋問が札幌地方裁判所で行われた。

原告のYさんは体調不良の出席できず、男性の当時の上司にあたる元作業員Sさんが被告側の証人として証言台に立った。

Sさんの証言とYさんの訴状に記載には大きな食い違いはなく、二人の話から、不十分な放射線教育、鉛ベストの不足や線量計の警報が鳴ったままでの作業の続行といった被ばく労働実態など、福島第一原発事故に伴う作業の杜撰さが裏付けられる形となった。

Yさん(61)は2015年9月1日に、がんを発症したのは作業中の放射線被曝などが原因として、東京電力や元請けの大成建設と山崎建設を相手取り、計約6500万円の損害賠償を求める訴えを札幌地裁に起こした。

2011年7月4日から同年10月31日までの約4カ月間、同原発構内のがれき撤去に伴う重機オペレーター業務に従事したYさんは、翌年の2012年6月に膀胱がん、2013年3月に胃がん、同年5月に結腸がんを発症している。

Yさんの被ばく記録(2017年2月撮影)

災害復旧工事は、東京電力が発注し、大成建設、鹿島建設、清水建設の3社共同企業体が元請として受注し、下請けが工事を請け負った。

今回の証人Sさんは一次下請けの山崎建設の従業員であり、Yさんはその二次下請け業者から派遣された。Sさんの作業期間は、Yさんとほぼ同じ2011年7月3日から11月2日までである。

二人がたずさわった主な災害復旧作業は、原子炉冷却用の放水車の運行ルートを確保するための通路のがれき撤去作業、さらに、タービン建屋の扉部分の破損物排除などだった。

東北大震災で全電源が喪失し、原子炉の冷却が不能となり、外部から消防車などにより注水作業が必要になったが、原発構内は地震や津波で発生したがれきや鋼材で覆われ、原子炉建屋まで車輌が通行できる状態ではなかった。そこで、1号機から6号機までの通行路を確保するため、緊急のがれき撤去作業が行われた。

また、通行路の確保作業が一通り終わった9月頃には、タービン建屋のなかに遠隔操作の機械などを入れるため、4号機の鉄製の扉をこじあけるという作業を行った。扉は津波で押しつぶされて外れていたが、そこに散在していたがれきを撤去したという。

Sさんは、線量オーバーになった前任者の交替で、所長に赴任した。それ以前は原発で働いたことはなかったという。

作業はA班とB班の2班がシフトを組んで行われ、Sさんは所長とA班班長を兼務した。YさんはB班に所属し、B班の班長も山崎建設の従業員だった。SさんはA班の班長として現場で作業を行ったが、B班の作業をつねに見ていたわけではない。

作業は、荷台に鉛で覆った重機の操作室を設置した10トントラックを放射線量が高い現場に停め、遠隔操作で重機を動かし、がれきを撤去する。

操作室は、重機オペレーターは3名、各所に設置されたカメラの遠隔操作を行うカメラオペレーターが1名、班長および残り3名は待機という班員8名体制。

Yさんは、この重機オペレーターとして雇用された。

放射線教育

現場に入る前の教育は、山崎建設でまず行い、東電からの放射線教育、大成建設からの安全教育を受けたという。統括する立場だからといって、特別な放射線教育はなく、所長も班長も班員もみな同じだった。

「放射線の被ばくについては、携帯やパソコンで見たりした。被ばくで死亡するというのを見たのが印象に残っている」とSさん。

構内への入場方法や作業のやり方などは、みな担当者から個別に指導を受けるだけだった。

屋外作業

カメラや重機の遠隔操作用ケーブルの接続や、カメラの高さ調整やレンズの曇りといった不都合が生じた場合は、班長や班員が操作室から出て、外での作業を行った。

重機にもカメラがついているが、一部しかうつらないため、トラックの荷台にカメラを載せ、15~20mの間隔でカメラを設置した。カメラの高さは、最長地上4mぐらいに達する。

「操作室から『◯番のカメラが曇って見えない』と連絡が入ったら、外に出て、レンズを拭いた。カメラが高いときは、下げてレンズを拭き、元の高さに戻す。屋外の作業は班の全員で行った」

1m㏜を超えて警報が鳴ったら、無線で報告し、操作室などに退避することになっていたが、警報が鳴っても、作業を続行したこともあったという。線量が高い場所でのカメラやケーブルを移設のときだけは続行した。数日に分けてやる方法もあるが、日数をかけてやるより、1日で作業を終わらせたほうが低い被ばく線量ですむからだという。

班長は、作業前に現場の空間線量を測り、「たとえば、0.3m㏜なら、2時間で0.6m㏜」と計算し、1日1m㏜以下に設定して、その日の作業時間を決めたという。

また、各作業員の累計線量を把握し、その日の量を勘案し、特定の人に被ばくがかたよらないよう屋外作業は分担したそうだ。

手作業でのがれき撤去

重機で片づけられないがれきは、手作業でバケットに載せた。手作業を行った範囲は、3、4号機、5、6号機付近の「1m㏜以下線量の低い場所」(証言)。手作業で撤去したのは、ステンレスやアルミのガードレールなどのがれきだったという。

Yさんは、「20~30キログラムぐらいのコンクリート片のがれきを両手で抱え込み、下腹で支え、運んだ」と訴状に記載しているが、「タイベックが破れる恐れがあるので、大きいがれきはやっていないと思う」とSさんはこれを否定する。

「操作室から外に出て作業を行う場合、必ず鉛ベストを着用した」とYさんは記載するが、Sさんは「鉛のベストやエプロンをつけるときもあったが、全員の分がなかった」と証言している。

重機のメンテナンス

重機のメンテナンス、「ニブラ」の大型ハサミの刃の研磨作業も5、6号機付近の野外で実施した。

Yさんは「1週間に1回」と記載している。Sさんは、「2週間に1回」と述べた後、「使用期間中は止められないので、切れが悪くても作業を行い、終わったらメンテナンスをした」と言い換え、「Yさんも研磨作業を行った」と証言した。

線量計を外しての作業

Yさんは、自分の代わりの重機オペレーターを補充できないと考え、「一定の被曝線量を超えないよう作業中に線量計を外すこともあった」「操作室の中でタイベックの襟元のチャックを開け、APD(警報付きポケット線量計)とガラスバッチを取り出して、操作室のテレビモニターの裏に置き、外での作業を行ったことがあった」と記載している。

しかし「首から抜くのは不可能」とSさんはこれを否定。

放射線被曝線量の測定には、APDとガラスバッチが支給された。ガラスバッチのひもにAPDをつけて、下着の胸部のポケットに入れていた。その上にタイベックを着る。

頭には地肌に綿の帽子をつけ、タイベックのフードをかぶり、全面マスクをつける。手は木綿手袋、ゴム手袋、軍手つけ、足は軍足2枚と安全靴。タイベックと全面マスクのすき間、襟元、ファスナー、裾と袖口にガムテープでとめていた。

「操作室は狭く、はずしていればわかる。隠す場所もない」と証言。A班にはガラスバッチやAPDを外した作業員はおらず、B班にも訴訟後に確認したが、はずした作業員はいなかったそうだ。Sさんもはずしたことがないという。

被ばく線量管理

放射線量測定は、現場、免震棟、Jビレッジで行われた。

「靴の汚染検査でひっかった作業員は、靴を没収された」とSさんは1例だけ示した。

作業中はADPとガラスバッチの2種の線量計を胸部につけることになっていた。

免震重要棟(免震棟)に線量計の貸出・返却窓口があり、そこには「東電の人か、東電の下請かわからないが、1~2人」の担当者が常駐していた。

作業前、着替え前の下着姿、もしくはタイベックを着た後に口頭で申請して借り、朝礼時には全員つけていなければならなかった。

作業終了後には同じ窓口で返却し、その際、APDの数値を伝えられる。その線量を自分で作業週報に書き込み、「日報入れ」に入れて帰る。

線量を記入した作業週報は、山崎建設の従業員が回収し、管理していたという。

Sさんは11月2日まで作業し、被ばく線量確定値は68.4m㏜だった。しかし、月別従業者の線量欄には、10月のAPD速報値が51.308m㏜と記載されている。

11月に入って1m㏜は超えるような特別な作業はしていないということだが、この数値だけでみると、2日間で15m㏜被ばくした結果になっている。

Sさんはその数値を見たとき、「差が大きいな」と思ったそうだ。4~5m㏜の誤差は他の作業員でもみられたが、それに比べて大きかったからだという。

一方、Yさんは、被ばく線量が56.41ミリシーベルトに達し、作業が終了になったという。約4ヶ月の作業期間に1m㏜を超えたのは、7月8日、23日、25日、8月21日、10月14日の5回だった。

Yさんの内部被ばくはゼロと記録されており、外部被ばくを含め、実際にはもっと被ばく線量は多く、がんの発症と因果関係がある、と主張している。

2016年に労災再審査請求が却下され、Yさんの労災不支給が決定した。2017年2月に、労災認定を求める行政訴訟も起こし、現在、2つの訴訟が係争中だ。

(2019年12月1日)

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