病院で何が?釧路の男性看護師がわずか半年で自殺(2)

村山譲さんは、36歳で看護師免許を取得し、2013年4月1日から釧路赤十字病院で働きはじめた。

パワハラか?釧路の男性看護師がわずか半年で自殺(1)
高校時代からの夢だった看護師として第二の人生を踏み出した村山譲さんは、北海道釧路市の釧路赤十字病院に入職後、たった6ヶ月で自ら命を絶った。本人がA4の紙に綴った自筆の遺書には、パワハラの告発ともとれる文章が記されていた。母親が心境を語った。

小中学校時代は運動部に所属し、スキューバダイビングやウインドサーフィン、スノーボードが趣味の譲さんは、元来明るい性格だった。競争が嫌いで、器用なほうではなかったが、弟や妹、後輩の相談にのるような、しっかり者だったという。

役場に勤めていた譲さんが、「医師か看護師に挑戦したい」と両親に打ち明けたのは、30歳になる2007年9月のことだった。看護師の母親、百合子さんの背中をみてきた譲さんは、30歳を節目に医療関係に進む決心をしていた。

社会人10年の節目に念願の看護師を目指す

高校卒業のときにも看護師を目指したが、看護学校を受験に失敗し、断念した経緯がある。
「再チャレンジしたかったようですが、私たち夫婦も若く、子ども4人と夫の両親の8人家族だったため、生活に余裕がなくて」と百合子さん。
結局、父親の豊作さんの勧めもあり、専門学校に進学し、土木を学んだ。
2年後、北海道・壮瞥町役場に就職。豊作さんは大工で収入が不安定だったため、息子が公務員になったことを喜んでいた。

社会人10年目の譲さんが切り出した転職の相談に、家族は戸惑った。

助産師の妹も、「看護師になりたい? 何を言っているの?」と驚いたという。
「兄は“おっちゃん”で、女の世界のなかでうまくやっていけるような雰囲気ではなかったんです。でも、絶対に看護師になりたい、と強い決意でした」と当時を思い出して言う。
看護師の百合子さんも、「看護師は女性の職場だから大変だよ」と心配したが、譲さんの意志は固かった。

「貯金と退職金を合わせて500万円あり、奨学金も借りる。アルバイトで勉強時間をとられたくないから、親も少し援助してほしい」と言われ、「看護学校だったら」と了解した。

翌年4月から1年間、札幌の看護予備校で学び、2009年4月に北見市の日本赤十字北海道看護大学看護学部に入学。日本学生支援機構と釧路日赤の奨学金の手続きは自分で済ませた。

ボロボロの穴が開いたジャージを着て、車もテレビも持たず、帰省には夜行バスを使うなどして倹約し、予備校から大学までの5年間、必死で勉強をした。看護大学の成績は悪くなく、実習も問題なく経験した。

「免許を取得したときは、家族にコピーを送ってきて、すごくうれしそうでした。自死は、本人が一番悔しかったはずです」と百合子さんは話す。

就職先は、奨学金の関係もあり、日本赤十字社釧路赤十字病院に決めた。

入職した2013年4月1日、「新人は4人手術室に配属された」と明るい声で電話してきた。

4月中旬、本人の健康保険証が交付されたため、父親の扶養家族の無効になった保険証を封書で送ってきた。同封の手紙には、「5年間扶養家族にしてもらってありがとうございました。やっと一人前になり、自分の健康保険証が持てました」と書かれていた。

5月のゴールデンウィークは「自己学習がすごく多いので、暇がない」と実家に戻らなかったが、「6月に夏休みがあるので、その時に帰る」とうれしそうに話していた。

ところが、6月中旬に、「ミスをしたので振り返りをしなければならず、夏休みは帰れない」と連絡があった。

インシデントを起こし連絡が途切れ

譲さんは2013年6月12日、麻酔薬のプロポフォールを指示量より1ml多く注射してしまうインシデントを起こしたのだ。

百合子さんに「それならなおのこと、気晴らしに短くてもいいから帰ってきたら?」と促され、譲さんは6月14日から17日まで、母親や妹夫婦、従兄弟たちと過ごした。そのとき、特に変った様子はなかったという。

ただ、「とにかく、やることがいっぱいある」と釧路での激務を感じさせる言動もみられた。携帯電話の目覚ましアラームを夜間2~3時間ごとに設定していたため、理由を尋ねたら、「振り返りや自己学習などが多くて、帰宅したら少し寝て頭がすっきりしたら勉強している」と答え、毎年旬の時期に送っていた大好きな桃も、「疲れて皮をむくのが嫌なんだ、今年は気持ちだけ受け取るよ」と断った。

勤務状況については、「夜勤はまだしばらくつかないと思う、10月からの器械出しを覚えてからだよ」と答えている。

また、百合子さんが学生支援機構の奨学金の立て替え一括返済を提案したら、「大丈夫だよ。返済は10月からで、夜勤が入ったら、少し繰り上げ返済できるだろうし、心配いらないよ。車一台買ったら、そのぐらいの額だから」と自分の返済計画を話してくれたという。

秋刀魚が好きな母親に、「9月に釧路においでよ、和商市場に連れていくね」と言い残し、譲さんは釧路に戻った。

釧路から室蘭は電車で約5時間かかるため、頻繁に行き来できる距離ではなかったが、譲さんとは、最低でも週1回はメールや電話でやりとりしていた。夏休みが終わって釧路に帰宅した6月17日の夜も、到着した旨のメールが入った。

しかし7月に入り、譲さんとの連絡が途絶えはじめる。

譲さんは6月に、手術台のロックを外すインシデントを起こしてしいた。この直後、新人4人のうち譲さんだけ、次のステップに進ませないという、予定のカリキュラムが変更される。本来の仕事から外され、一人前の看護師になる道を閉ざされたのだ。

両親はこの事実を、息子の死後、病院から聞かされることになる。

7月8日にメールがあり、2日後の10日にはメールも電話も通じなくなった。妹も連絡がとれなかった。

8月に入り、メールを送信したら、後で電話がかかってきた。「疲れていてメールも電話もしたくない」との話だった。その後、また連絡がとれなくなる。

8月10日、パソコンに「緊急のときはどうやって連絡しらいいですか?」とメールを送ったら、「このアドレスです」と短い文で返信があった。これが譲さんからの最後のメールとなる。

8月末から9月初めにかけて、「冷凍食品送りますか?」「祖母の敬老のお祝いについて相談したい」とメールをしたが、返信はなかった。

「よほど疲れているんだな、と思いましたが、まさか精神が壊れているとは…」と百合子さんは言う。

釧路から室蘭へ最期の日

9月13日、譲さんは勤務終了後、研修会に自主参加した。その後、釧路からレンタカーを借りて室蘭に向かったと思われる。

翌9月14日午後3時ごろ、家の近所にある、仲よくしている中学校からの同級生の理髪店へ行き、散髪してもらっていた。「連休だから帰ってきたの?」と友人が聞いたら、「そうなんだ」と答え、まった普段と変わらなかったという。「やっぱり、いいね、この感触、また来るよ」と同級生とその母親と会話を交わし、店を出た。

譲さんは実家には立ち寄らず、レンタカーを返却し、電車で実家に戻った。実家には父の豊作さんが在宅していたが、譲さんは声をかけていない。百合子さんは札幌で仕事のため留守だった。

その夜から翌朝にかけて、激しい雨が降っていた。

9月15日の朝8時ごろ、豊作さんが用事で車庫に入り、遺体を発見する。「大変なことが起きたんだ。知らない人が亡くなっていた。いま、警察と救急車に連絡した」と札幌にいる百合子さんに電話があった。

「あんなに重いシャッターなのに、誰がどうやって車庫に入ったのだろう?」 百合子さんはとっさにそう思ったという。

豊作さんは、駈けつけた警察官に促され、息子の携帯番号をかけてみた。すると、近くにおいてあったカバンのなかで携帯が鳴った。

そのカバンのなかに、遺書も入っていた。

亡くなったのは、15日の朝方と診断された。

看護師になった後、幼ななじみや看予備の先生などと食事を共にすることもあったが、譲さんからは、「困った」「辛い」といったグチは何ひとつ出なかったという。

しかし、後でわかったことだが、譲さんが4月に釧路の内科医から「心身症」「不眠症」と診断を受け、抗不安薬など6種の内服薬を処方されていた。症状は日を追うごとに悪化し、薬の量も増加した。6月には1日3回も服用量だった。

「誰にもSOSを発することなく、まったく予告なしに、息子は逝ってしまった」

百合子さんはこう話す。

「息子は、看護師になるずっと前に、『縊死は見苦しいから、こういう死に方だけは嫌だ』と言っていたんです。それを自分でやるということは、完全に心が折れていたのだと思います」

(2019年 10月 25日 執筆)

新人教育に問題か?釧路の看護師が半年で自殺(3)
釧路赤十字病院の新人看護師だった村山譲さんは、入職して3ヶ月も経たない時期に「適性に欠ける」と判断され、次のカリキュラムへ進ませてもらえなかった。上司から厳しい指導を受け、周りのスタッフも無視するようになっていたといったハラスメントの証言も。

釧路新人看護師パワハラ死の記事一覧

札幌新人看護師過労死の記事一覧

地域医療の記事一覧

タイトルとURLをコピーしました