シェイクスピアを訪ねてストラットフォードとロンドンへ

『VISA』1997年に掲載された記事です。

天国と地獄を体験したストラットフォードの少年時代

近年のロンドンの盛り上がりを、ルネッサンスに例える人がいる。
ファッション、アートは世界中から注目され、新しくオープンしたショップやパブ、レストランは、いつもにぎわっている。“復興”という言葉がふさわしい華やかなムードが漂うなか、人々の流れは、テムズ川南岸へと向かっている。16世紀のルネッサンス期、劇場や宿場が集中していた娯楽エリアが、再びそのにぎわいを取り戻しつつあるのだ。このバンクサイドと呼ばれるサザック地区に、今年5月、グローブ座が昔の姿で再オープンした。

文芸復興の中心的人物、忽然と現れた天才詩人シェイクスピア。彼をなくして、イギリスのルネッサンスは語れない。数々の素晴らしい作品を残したシェイクスピアだが、その生涯は多くの謎に満ちている。グローブ座を中心とした演劇活動に燃えたロンドン、そして、生まれ育ち、晩年息を引き取るまで過ごしたストラットフォード・アポン・エイヴォン。シェイクスピアの魅力の原点は、この2つの町にあるといえる。

ストラットフォード・アポン・エイヴォンは、イングランドのほぼ中心に位置する。16世紀の昔、ここは200軒程の家が点在する静かな村だったが、ロンドンと地方都市を結ぶ主要道路の接点となっていたため、地域経済に重要な役割を果たしていた。

農夫の子として育ったシェイクスピアの父ジョンは、徒弟奉公を経て手袋商人となり、1557年に、農家出身のメアリー・アーデンと結婚。ヘンリー・ストリートに住居兼店舗を構えた。シェイクスピアがこの家で生まれたのは、1564年4月のこと。洗礼の日から推測して、23日が誕生日となっている。シェイクスピアは、8人兄弟の3番目、長男だった。父ジョンの商売は繁栄し、シェイクスピアの生まれた翌年に参事会員、1568年には町長に選ばれるなど、ストラットフォードの公務においてもトップの座についた。

裕福な家庭に生まれ、幼年期を過ごしたシェイクスピアだったが、その幸せは長く続かなかった。彼が9才の頃から、一家は財政困難に見舞われはじめ、ジョンは、財産や土地、社会的地位を次々に失っていく。没落していく父の姿から、シェイクスピアは多くの教訓を得たに違いない。彼が将来、実業家としての才覚を発揮したのも、この時期の経験からきていると思われる。

シェイクスピアは、小学校を卒業後、生家に近いエドワード6世グラマー・スクールに進学した。このグラマー・スクールは、無料であったのに加え、オックスフォード出身の教師が教える、レベルの高い学校だったという。通常は15才で卒業だが、シェイクスピアは途中で学校を辞め、親の家業を助けたそうだ。ラテン語、ギリシャ語、聖書、ギリシャ神話、北欧神話など、シェイクスピアが無限の知識を持っていたことは、彼の作品から明らかである。これらの知識は、グラマー・スクールで学べる以上のものであり、大学へも行かず、海外体験もないのに、どうしてこれほどの知識を得ることができたのかは、大きな疑問点だ。シェイクスピア家は異教徒カトリック信者で、高貴なカトリック関係者から教育を受けたとか、本人ではなく全くの別人が代わりに書いたなど、様々な説がささやかれている。

謎に包まれた家族の絆と故郷での穏やかな引退生活

ドラマチックな劇作家にふさわしく、シェイクスピアの結婚もスキャンダラスなものだった。といっても、情熱的な愛に燃えたわけではない。18才のシェイクスピアが、8才年上のアン・ハサウェイと結婚したのは、1582年のことだ。アンはすでに妊娠3ケ月ということもあり、結婚は内密に行われたらしい。自作農の娘だったアンは、読み書きもできない普通の女性だったという。結婚後、ヘンリー・ストリートのシェイクスピア家に住み、スザンナ、双子のハムネットとジュディスをもうけた。シェイクスピアは、その数年後、妻と子を故郷に残してロンドンへ向かう。たまにしかストラットフォードに戻らない夫を待ち、ひとりで家庭を守り続けたアン。彼女の存在は、偉大な詩人の影となり、最後まであまり目立たないものだった。

1580年中頃から、ロンドンで生活していたシェイクスピアだが、故郷ストラットフォードとは常に密接なコンタクトをとっていたようだ。芸術的成功はもちろん、金銭的にも成功を納めたシェイクスピアは、1597年、33才でストラットフォードの広壮な屋敷ニュー・プレイスを購入。その後もロンドンに住み続けたが、17世紀になってからは、ニュー・プレイスで休暇を過ごすことが多くなり、遅くとも1613年には、ストラットフォードの家に退いてしまった。ストラットフォードでの彼の生活について、詳しい記録は残っていないが、とても平穏なものだったという。そして、1616年4月23日、奇遇にも誕生日の日に生涯を閉じることになる。旧友とお酒を飲んでいる時にかかった熱病が、死因だといわれている。

シェイクスピアの財産は、家族のメンバーに贈られたが、子孫に恵まれず、彼の末裔は存在しない。シェイクスピアは、洗礼を受けたホーリー・トリニティ教会に埋葬され、妻アンと共に永遠の眠りについている。

緑豊かな川のある街ストラットフォードを巡る

ロンドンから車で2時間半程のところに位置するストラットフォード・アポン・エイヴォンは、シェイクスピアゆかりの地。チューダー朝の建物が残るこの町の散策は、ヘンリー・ストリートのシェイクスピアの生家から始めたい。借金に追われながらも、父ジョンはこの家を手放すことはなく、現在はシェイクスピア生誕地記念財団の保護の元、一般に公開されている。ハーフ・ティンバードと呼ばれる木骨組み、地元産の石でできた床、しっくい塗りの天井などは、当時の面影そのまま。入口になっている展示場は、2年前にオープンしたばかりで、シェイクスピアの生涯を紹介している。彼がグラマー・スクールで使ったといわれる机も見ることができる。

世界の庭(ヨーロッパ編4):ノットガーデン
シェイクスピアが晩年暮らしていた、ストラットフォード・アポン・エイボンのニュー・プレイスの庭はノットガーデンという。中世後期から庭園は明るく陽気な雰囲気をまし、長方形の花壇を組み合わせたのが典型的様式のノットガーデンが造られはじめた。

ギフトショップが並ぶヘンリー・ストリートからハイ・ストリートを通り、チャペル・ストリートに入ると、17世紀からの歴史を持つシェイクスピア・ホテルがある。シェイクスピア劇に登場する人物の名がつけられた部屋は、落ち着いた英国式インテリア。居心地のいいロビーのティールームで、アフタヌーン・ティーを楽しむのもいいだろう。

この通りの角は、シェイクスピアの孫娘エリザベス夫妻が住んだナッシュの家と、シェイクスピアが晩年過ごしたニュー・プレイス跡地。残念ながら屋敷は取り壊されてしまったが、今では見事なイングリッシュ・ガーデンとなり、旅行者の目を喜ばせてくれる。すぐ向かいには、シェイクスピアが通ったというキング・エドワード6世スクールがある。

シェイクスピアのお墓があるホーリー・トリニティ教会は、エイヴォン川の辺に位置する。1210年に建設が始まったという古い教会だ。ここから川沿いを北上すると、ジ・アザー・プレイス、スワン・シアター、ロイヤル・シェイクスピア・シアターが並んでいる。その横には川辺の公園バンククロフト・ガーデンが広がり、シェイクスピア像を中心に、ハムレット、マクベス夫人などのキャラクター像が配置されている。

また、ストラットフォードの郊外、徒歩で30分程のところには、アン・ハサウェイの育ったコテージがある。アンが少女時代に過ごしたこの家には、16世紀のオーク製ベッドや石の暖炉などが置かれ、当時の農家の生活を垣間見ることができる。

エキサイティングな街での劇作家としての栄光

シェイクスピアが役者になるためにロンドンへ行ったのかは、あまり定かではない。しかし、当時、年に1回はストラットフォードで劇団の公演を行っていたことが記録されており、シェイクスピアがこれらの劇団にかかわり、演劇に魅了された可能性は高い。

シェイクスピアが上京した1580年頃のロンドンは、エイルザベス朝の輝かしい時代だった。画家、音楽家、詩人たちが多彩な才能を発揮していたが、演劇は芸術としては新しい分野で、まだ発展途上の段階にあった。清教徒たちは、神聖を汚すものとして、演劇活動を阻止しよう企んでいたという。しかし、エリザベス女王の庇護、大衆の絶対なる支持のおかげもあり、ロンドンの演劇界は急成長していくことになる。1576年には初の劇場ザ・シアターがオープン、1587年にはローズ座が建てられた。その後、スワン座、グローブ座、フォーチュン座など次々に劇場が誕生する。

ザ・シアターで役者としてスタートしたシェイクスピアは、戯曲でその天才ぶりを証明することになる。大学出のインテリ紳士たちは、役者が脚本を書くことに嫌悪感を抱き、シェイクスピアを攻撃したが、芝居の大ヒットに悔しがるばかりだった。1590年中頃には、サウスハンプトン伯爵をパトロンにし、1599年完成のグローブ座の株10%を所有、さらに国王一座として王室に仕えるなど、目覚ましい成功をおさめていく。田舎出身の貧しい役者のイメージとはほど遠く、シェイクスピアは優雅な芸術家の道を歩んでいったようだ。17世紀に入った頃には、シェイクスピアは、演劇界の人気ナンバー1にのしあがっていた。

しかし、40代前半で絶頂期を迎えたシェイクスピアは、やがて情熱の炎の激しさを失い、精神の疲労をうかがわせるようになる。そして、1612年、「ヘンリー8世」を最後に筆を置くことになった。

シェイクスピア自身の性格は、実に“ジェントル(優しい)”だったという。20年間、同僚と一度もけんかをしなかったそうだ。この時代の短気な芸術家とは違い、彼は冷静な気質を持つ、バランスのとれた人間だったようだ。また、華やかなロンドンの生活の中で、甘い誘惑の罠に陥ることなく、家族への責任をまっとうしたともいわれている。

人間の深奥に潜むむきだしの感情を、ありのままに表現した詩人シェイクスピア。彼は、20世紀末の人々にはびこる無感情を予期していたのかもしれない。シェイクスピアの作品は、我々に人間らしい血の気を再び与えてくれる刺激剤となってくれるだろう。

中世時代、テムズ川にかかる唯一の橋だったロンドン・ブリッジ周辺には、旅行者が泊まる宿場や居酒屋が集中していた。16世紀には、繁華街として栄えた南岸のサザック地区。このエリアにゆかりのある芸術家は、シェイクスピアだけではない。チョーサーは「カンタベリー物語」でここが巡礼の出発点だったことを書いているし、ディケンズもこの地をよく知っていたという。古い町並みが残るこの界隈は、ロンドンのトレンディなエリアとして、再び熱い視線を集めている。

チャールズ・ディケンズのクリスマス・キャロルを訪ねて
19世紀のヴィクトリア・クリスマスの手本といわれた『クリスマス・キャロル』。作家ディケンズは、現在のクリスマスの基礎を作り上げた人物として、英国史に重要な役割を果たした。彼が暮らした家でもあるロンドンのチャールズ・ディケンズ博物館を訪ねた。

サザック散策は、ロンドン・ブリッジからスタート。地下鉄ロンドン・ブリッジを出て、橋を背にボロー・ハイ・ストリートを行くと、16世紀から存在する居酒屋兼宿場ジョージ・インがある。現在の建物は、1676年に再建されたもので、ディケンズの物語にも登場している。ホテルの部屋を改装した2階のレストランでは、落ち着いた雰囲気の中、伝統的なイギリス料理が楽しめ、1階のパブ&バーは、ランチタイムのビジネスマンでにぎわう。この通りの先には、ディケンズの父親が入っていた刑務所跡も存在する。

ボロー・ハイ・ストリートを橋に向かって進み、テムズ川沿いを西へ行くと、千年以上の歴史を持つサザック大聖堂にたどりつく。この大聖堂には、シェイクスピア記念像が置かれ、その上には、劇の場面を描いたステンドグラスが飾られている。また、役者を目指し、兄を慕って上京したシェイクスピアの弟エドモンドは、ここに埋葬されている。

このすぐ近く、サザックの古い桟橋セント・メリー・オベリー・ドックに浮かぶ帆船は、サー・フランシス・ドレイクが1577~1580年の周航に利用したゴールデン・ハインドのレプリカだ。現在、船内は船の博物館になっている。美しい14世紀のバラの窓が残るウインチェスター主教の住居跡は、中世時代を彷彿させる狭くて陰気な道にある。クリンク(刑務所)通りの名にふさわしく、ここには刑務所博物館も。

テムズ川に面したザ・アンカーは、1775年に建てられた居酒屋兼宿場。その起源は800年以上にさかのぼるという、歴史の古いパブだ。ここでは、ランカシャーのハム肉、スコットランドのサーモン・コロッケ、フィッシュ&チップス、キドニーパイなどイギリスの伝統的な家庭料理が味わえる。2階のレストランでくつろぐのもいいが、天気のいい日はテラスでの食事が心地好い。

サザック・ブリッジ・ロードを越えると、川向こうには、セント・ポール寺院の屋根が見えてくる。グローブ座は、サザック橋のたもとに位置する。野外劇場のため、上演は夏期のみだが、展示会と劇場見学は1年中行っている。また、このグローブ座が出発のサザック地区散策ツアーもあるので、参加してみてもいいだろう。

シェイクスピア期に芸術としての地位を獲得した演劇は、今もロンドンの重要なエンターテイメントになっている。芝居ファンでなくとも、一度は本場の劇場に足を運んでみたい。ウエスト・エンドと呼ばれるシアター街は、テムズ川北岸のレスター・スクエアを中心に広がっている。ニュー・ロンドン劇場のキャッツ、パレス劇場のレ・ミゼラブル、フェニックス劇場のブラッド・ブラザーズなどのミュージカルは、初心者向けだ。

本格的なシェイクスピア劇を観たい人は、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのロンドン拠点であるバービカン劇場へ。もっと気軽にシェイクスピアを楽しみたいなら、ピカデリー・サーカスのクリテリオン劇場で上演されているザ・コンプリート・ワークス・オブ・ウイリアム・シェイクスピアがおすすめだ。シェイクスピアのあらゆる劇からピックアップした有名なシーンが、次々と登場する。スピード感あふれるコメディは、言葉はわからなくとも、97分たっぷり笑えること間違いない。

夜の公演は20時スタートという劇場が多く、観劇前にゆっくり食事ができないのが難点のひとつ。リージェント・ストリートにあるロデオンには、開演時間に合わせ、午後17時半から19時のプレ・シアター・メニューが用意されている。ロンドンの新しい味として話題となっているモダン・ブリティッシュが、思い存分満喫できるレストランだ。スコッチビーフ、サーモン、ラムなど新鮮なイギリスの食材を使い、フランス料理とイタリア料理のテクニックをミックスした新英国料理は、2皿コース£14.50、3皿コース£17.50と値段も手頃。シンプルかつモダンな内装で、ガラス張りの2階からは、通りを行き交う人々の姿が見える。

観劇後にお腹が空いたら、ソーホーの中華街に直行。北京ダックやソーセージがぶらさがったレストランは、遅くまで営業していて、軽食からしっかりしたディナーまで、空腹具合に合わせて食事ができる 今、ヨーロッパで最も元気な街ロンドン。今世紀のルネッサンスを体験してほしい。

ヴァレリー・アリエ(グローブ座ガイド)
10年間ボランティアとしてグローブ座のプロジェクトに参加した後、3年前からガイドを担当しはじめたヴァレリー・アリエさん。冗談を交えた約30分のガイドで、シェイクスピア劇の魅力をたっぷり語ってくれる。
「残念ながら、ロンドンでのシェイクスピアの生活は明確ではありません。でも、彼がグローブ座の近くに住んでいたのは確かです。当時の劇場には、お金持ちだけでなく、貧乏人やこの近辺に住む売春婦も観劇にやって来ました。立ち見の入場料は1ペニーで、現在の5ポンドぐらい。シェイクスピア劇は台詞が命。字が読めない人も、思いきり楽しむことができたのです。シンプルな舞台の上で繰り広げられるお芝居は、“聴く”ことで様々なイマジネーションの世界を演出します。現在のグローブ座も、そのシェイクスピア劇の基本を大切にしているのです」 単なる劇場というだけでなく、ワークショップや子供たちへの演劇教育など、新たな試みを目指すグローブ座に、心引かれているという彼女。一番のお気に入りは、「リチャード3世」だという。「ストーリーが面白く、お芝居としての構成も素晴らしいと思います。実物のリチャード3世に興味もありますし…。何度観ても飽きないですね」

ロバート・クレイヴァン(ホーリー・トリニティ教会スチュワード)
「シェイクスピアが眠るこの教会には、1日平均千人程が訪れます」と語るのは、ロバート・クレイヴァンさん。ここには、日本語を含む17ケ国語のパンフレットが用意されている。
「シェイクスピアはここで洗礼を受けましたが、結婚の記録は残っておらず、どこで式を挙げたのかは謎のひとつです。晩年、彼はストラットフォードに戻り、この教会に大きく寄与しました。展示されている1617年発行の聖書は、シェイクスピアも読んだものとして、教会の宝物になっています。また、礼拝堂の左上にあるシェイクスピアの胸像は、彼の死後、友人が作って捧げたものです。肖像画を残さなかったため、唯一シェイクスピアの姿を表したものとして、この胸像を参考に、たくさんの肖像画が描かれたのです。シェイクスピアは、最もいい場所に埋葬されていますが、それは、彼の功績のためというわけではありません。豪邸3軒分程の莫大なお金を寄付し、レイ・レクターという称号を得たからです。ロンドンでの成功のため、億万長者になって故郷に戻ってきたシェイクスピアですが、町の嫌われ者になることはなかったようです。当時、彼の死を悔やんで、多くの人々がこの教会にやって来ました。400年たった今でも、シェイクスピアはみんなに愛されています」

アラン・フィンレー(アン・ハサウェイのコテージ ガイド)
シェイクスピアの妻アン・ハサウェイが生まれ育ったリンゴ園が広がる田舎風コテージで案内役を務めるアラン・フィンレーさんは、「ここは、春になると一斉に花が咲き乱れ、素晴らしい風景になりますよ。洗練された美というより、野生的な強さを感じることができます。アンもそういった女性だったのではないでしょうか」と言う。
「シェイクスピアの活躍とは反対に、アンのイメージはとても地味なものでした。親同士が懇意ということで、二人は知り合ったようですが、ロマンティックな恋愛というわけではなかったといわれています。21才にならないと結婚できなかった時代、未成年のシェイクスピアは、教会にお金を払って特別な許可をもらったともいわれています。その時、アンは26才。かなり晩婚だったようです。父親を早く亡くし、長女のアンが家族の世話をしていたため、婚期を逃したのではないでしょうか。結婚後は、シェイクスピアの両親と同居し、彼がロンドンで生活していた20年間、子供と共に、このストラットフォードで暮らしていました。とても忍耐強い女性だったと思われます。休暇で夫が帰ってくるのを、どんなに心待ちにしていたことでしょう」

 

世界の庭(ヨーロッパ編10):公園の発達
19世紀、権力者はもはや大庭園を独占できなくなり、一般市民が寛ぐオープンスペースが必要とされ、レジャー向けの広場が次々と誕生した。広々とした野原と帯状に植えた樹木で構成される風景式庭園が多く、樹木で囲んだ公園内には、いくつかの花壇を設けた。

 

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