『北海道新聞』夕刊で、2009年1月19日~21日と3回にわたって掲載した手記の全訳です。
札幌で2009年1月10日に行われてたパレスチナ攻撃反対いのちの行進
2008年末から、パレスチナのガザ地区はイスラエル軍に激しく攻撃されつづけました。
南部最大の都市ハンユニスに住む、NGOスタッフの女性マジダ・エルサッカさんと何度かメールのやりとりをしていたところ、2009年1月9日に、彼女からPDFで手記が届きました。幼い甥っ子とかわした会話が中心です。
本人に公表の許可を得て、この手記の翻訳を掲載しました。
以下は、マジダさんから届いた手記の全訳です。
2008年12月27日
イスラエルはあえてクリスマス休暇に攻撃を開始したという確信がある。この時期であれば、EUも米国もさほど反応を示さないだろうことを、私は知っているのだ。それだけではなく、イスラエルは時間がたっぷりあるときに虐殺をする計算だったこともわかっている。
それにしても、このようなことになろうとは、少しも想像していなかった。11時か11時半ごろだった。ハンユニスに地震が起きたのかと感じた。しかも、これまで聴いたこともないほどの轟音をともなっていた。数年前にイスラエル占領軍がソニックブームを使ったときでさえ、あれほどの音ではなかった。私の頭にすぐに浮かんだのは、母親、姉妹たち、そして、学校や幼稚園に通う子供たちのことだった。私は熱いシャワーを浴びようと2階に駆け上がった。ここ1週間以上は冷たい水のシャワーだった。というのも、水を温めるほどの晴天には恵まれず、5分間の贅沢なシャワータイムを楽しむための水を温めるほどの十分な時間とパワーの電気が使えなかったからだ。
聞こえてくる音よりも速く、私は階段を急いで駆け下りた。姉の目を見つめ、母親の目を見つめ、すぐ、幼稚園と学校にいる子供たちを迎えに行くために、庭に向かって階段を走った。6歳の甥は試験だったので、いつもより早く学校から戻ってきた。他の二人はドアのところに立っていた。幸いなことに、うちの隣の人が町に出かけていたので、彼が自分の子供と一緒に、私の甥たちも連れて帰ってきてくれたのだ。
子供たちは怖がっていて、自分でも理解できないまま大声で話していた。4歳の甥ワエル(Wael)はなんだか理解できないでいた。彼は、イスラエルが存在していることさえ知らなかった。
今、彼はそれを知ったのである。子供たちみんなが、それを知ったのである。
家族の誰もが、どうしていいかわからなかった。そこで、みんな庭に集まった。前回イスラエルが攻撃してきたとき、うちの窓が私たちの頭上で割れ、いくつかのドアも壊れた。今回の爆撃は以前より激しいので、一番の解決策は、野外にいることのように思えた。
こうしたすべてのことや爆撃の音はつづいた。あらゆるところから煙が立ち、爆撃の匂いが再び私たちの生活を汚染しはじめた。
ガザにいる弟とその家族の安否を確認しようと、1時間以上電話をかけていたが、固定電話も携帯も通じなかった。
1時間後、弟の家族のひとりと話すことができた。甥のアザム(Azzam)で、彼は国連で働いている。彼は、ガザの国連構内にあるシェルターのひとつにいたから無事だったと言った。ガザの国連がシェルターを備えているなんて、私は初めて知った!
2時間後、メールが受信されはじめ、無事であるという返事をみんなから受け取った。しかし、誰もが、この人工的な地震に関するそれぞれのストーリーを伝えていた。
後に、この爆撃が細長いガザ全体に同時に起こったことを発見した。私の家族や私自身はなんてラッキーだったのだろう。最初の攻撃の5分で殺された人々の数には含まれていなかったのだから。私たちは“幸運”である。本当に!!
20日間、料理をするためのガスが使えなかった。先月は、いとこが自分の分の余りである6キロを譲ってくれた。2008年12月27日のブラック・サタデーの朝、生涯を通してぜったい避けたいと思っていた闇市で、料理用のガスを手に入れた。いとこの分を返し、うちのシリンダーを満たした。普段の4倍の値段だったが、他に選択の余地はない。
午後5時、爆撃が止まり、いとこの家に料理用ガスのシリンダーを持っていっても大丈夫になった。いとこの家は、うちから車でたった5分である。子供たちは一緒に行くと言い張って泣き出したため、連れて行くことにした。家を回り、後方から通りに入った。しかし、そこには交番があることを思い出したので、他の道路を通ったほうがいいだろうと思った。そこで、逆戻りして他の道に入ったとき、目の前で飛行機が車を爆撃するのを見てしまった。
子供たちは燃え上がる炎を見て、爆音を耳にした。彼らは非常に怖がった。これはお正月の花火だよ、と私は彼らに語った。
隣の家が葬式を執り行い、道は人と車であふれかえっていたので、家に戻ることができなかった。そこで、前進することに決めた。いとこにシリンダーを渡した帰り道で、また大きな爆発があった。今度のは、市内の警察署のすぐ近くだった。
私たちは花火を後に、家に戻った。
母は、イスラエルがアスダア・メディア・シティを爆撃したと言った。ここは、ハンユニスの端に位置する、旧イスラエル入植地に新しくできた娯楽エリアだ。5歳の甥アルスラン(Arslan)はとてもおびえていた。他の子供同様アルスランは、この場所が気に入っている。なぜなら、釣堀、小さな動物園、小さな遊び場、レストランがあるからだ。彼は激しく泣いた。私は彼に何の約束もしてあげることができない。「もっと美しいほかの場所を見つけてあげるよ」なんて。
子供たちが眠ったのを確認し、彼らを2階のベッドに連れて行った。すこしは安心することができるだろう。
一晩中、私は眠ることができなかった。爆撃の音を聞きながら、友人や家族に電話をし、彼らが無事であることを確認し、テレビを観る電気がないのでラジオを聴き、子供たちを外に連れて行った自分の愚かさをのろっていた。自分が鈍感なのかわからない。もしくはイスラエルが、世界が鈍感なのか!!! 子供たちを外に連れて行くなんて賢いとはいえないのか。もちろん、そうだろう。でも、ガザでなかったら。この時期でなかったら。他のときであっても。
2008年12月28日
朝、ワエルが起きてきて、腫れている指を私に見せた。「見て。爆撃と空爆でこんなになっちゃった!」
「いつ?」私は聞いた。
「昨日の夜、僕が寝ているときに、攻撃されたんだ」
「ウソつき」私は言った。
彼は笑いながら言った。「おばさんもウソつき」!!!
2008年12月31日
昨夜、ガザのTel Al-Hawaに住んでいる友人ワファ(Wafa)の安否を尋ねようと電話をした。彼女は元気で“ラッキー”な家族である。彼女はそう自分で言った。というのも、ガザで最初の爆撃がはじまった土曜日、彼女はアパートの掃除と模様替えをしようと、すべてのドアと窓を開けていた。それで、窓もドアも何一つ壊れなかった。近所の人たちは窓もドアも壊れ、今は彼女のアパートの2階に避難している。
ワファは、午後7時過ぎ、近所の人全員が彼女のアパートに集まり、一部屋に男性、別の部屋に女性といったぐあいにいる。電話を通して、子供のなき声と不安そうな音が聞こえた。
「娘のミラが怖がっているの」ワファは言った。
「娘を覚えてるでしょ?」
「娘を外に連れて行ってガザの現実を見せたら、恐怖が少しおさまるかと思ったの。だって、私たちはみんな同じ状況で生きているのだし、他の人たちより自分たちのほうがましだと思ってたから。だから、娘を近所に散歩に連れて行ったの。そうしなければよかったのに」
「私は自分が目にしたものを見たとき、恐怖が襲ってきたのを感じたわ」 ワファは説明した。
「娘を目隠しして、走って家に戻ったの。彼女をアパートの外に連れて行ったことをのろったわ。でも、1日もしないうちに、ガザがゴーストシティになるなんて、想像もしていなかった。この近辺は跡形もなく、あなたが見てもどこだかわからないでしょう」
ワファはヒステリックに付け加えた。
「マジダ、わかる? 私たちはみんな無事よ。本当に。ただひとつの問題は、爆撃のあった日から電気がまったく使えなくなったこと。それ以来、パン生地を作り、近所のビルに住む人のところに持っていって焼いてもらうの。彼らは自家発電気をもっているのよ。幸いなことに!」
「正直言って、パンや寒さや、建物とかすべてのことは、今の私たちにとってさほど問題ではないのよ」 ワファは言った。「本当の問題は、ビルのまん前に不発弾ロケットがころがっていることなの」
「なんのロケット?」
「F16のロケット。私たちは何人かの人を呼んだんだけど、誰も何もできないの。そこに近づいたら爆発するんじゃないかって、みんな恐れているの」
「ということは、それはまだビルのまん前にあるの?」
「いいえ。今はまん前にはないわ。シヴィル・ディフェンスがやってきて、その周りにロープを巻いて、道路のほうに動かしたの」
「子供や誰かが怪我をしないようにって、ロケットの上にに砂をかけていたわ」
2009年1月4日
昨日は人生で最も恐ろしい日だったと思う。母は、1967年のときより怖かったといっていた。戦争はそれほどはひどくない。電気が使えないこと、水がほとんどないこと、凍りつく寒さ、そして最も恐ろしいのは、生活の戦争のオーケストラを伴う寒さである。
陸上の侵攻による戦車での爆撃、F16の空爆、昼も夜も繰り返しつづく轟音。それは耳元で蜂がぶんぶんいっているかのような鬱陶しい音なのだ。それに加え、海からの攻撃の音もある。
戦争のメロディー。私はそう名づけたい。
このように、ワエルの質問に私は答えることができる。彼は質問しつづけた:戦争って何? どうして戦争なの? 誰が戦争をはじめたの? どうして戦争なの?
たぶん、私がメロディーという言葉を加えたら、彼は「どんなメロディ…」と質問してきただろう。
残念ながら、ワエルはメロディーについて質問してこない。彼は聞き続ける。
「バイロットはどうして鳥を殺したがるの? どうしてパイロットは鳥を憎んでるの? たぶんパイロットは鳥が僕たちのように命があることを知らないんだ…」
私は彼の質問にショックを覚えた。
「たぶん、鳥に命があることをパイロットは知らないんだ」
外が冷え込んできたので、私はワエルに家の中に入るよう言った。彼の鳥はもはや空に飛んではいない。
「おいで、アラスカゲームをしよう!」
「アラスカって何?」
「おばあちゃんとも一緒にできる新しいゲーム。頭からつま先まですっぽり身体を隠せるよう、みんな自分の毛布を持って」
これで体が温まるのか、爆撃から隠れることができるのか、私にはわからない。電気がなく、私たちを心地よくさせてくれる空の鳥がいないので、どんなことをしたって、いい気分にさせてくれた。
「OK。ワエルがアラスカ州の一番偉い人だよ。私たちはアラスカの住民。ワエルは私たちが何をするように命令する?」 私はゲームをはじめた。
「店に行って、僕のために飛行機とカゴと種を買ってくるように命令する」と、親指をしゃぶりながら彼は言った。
「どうして?」
私は尋ねた。
「説明しなければならないよ」
「僕は上へ、上へ、上へ行きたい。神に届くまで。
そして、鳥たちを全部連れてくるんだ。
鳥をかごに入れて。
僕はまた飛ぶ。
そして、パイロットを捕まえて、
彼をここに連れてきて、
鳥に餌を与えるようにパイロットに種をあげるんだ」
爆撃がつづくなか、私はワエルを見た。彼はかなり不安そうだった。
…そして、アラスカゲームはこの爆撃がつづく状況下で、体と生活にある程度の温かさをもたらすクリエイティブなある種の考えをもたらすだろうと思っていたので。
残念ながら、それはあまり賢いアイデアではなかった。私は母親の命令にただ従い、お互いもっと近くによりそい、抱きしめあうことで、本当の温かさをもたらし、ほんの少しの安心を感じた。
外からのメロディーを聴きながら。大きな声で爆撃の回数を数え始めた。1、2、2、28、32…。子供たちは50以上のかぞえかたを知らなかったので、そこでやめた。
ドアや窓は開けっ放しにしておかなければならない。というのは、F16 の爆撃は、ドアや窓を粉々にできる。以前、2008年3月、うちの前のビルが攻撃されたときにそれが起こった。そのときは、市場でガラスを買うことができたが、今は何も買えず、つまり、ドアがなかったり、窓が割れた状態で一冬過ごさなければならないことになる。変化をコントロールし、窓とドアは開けたままにしておくしかない。
とても長い5時間が過ぎたが、状況は変わらない。私たちが目撃した唯一の変化は、オーケストラにエキストラの音が加わったことだ。救急車が行ったり来たりする音である。
私は子供たちに、私たちと一緒に1階で寝るかどうか聞いた。ワエルは拒否した。彼は、「自分のベッドで寝る。そうしなければ。パイロットがアパートを攻撃するだろう」言いつづけた。
私は、「みんな一緒にいたらもっと温かく感じる」と言って彼を説得しようとした。彼はついに同意した。でも、「自分のベッド、自分の部屋、おもちゃ、学校のかばんを調べに2階に行ってもいいか」と聞き続けた。最終的に、ひとつの場所に彼をとどまらせるのが安全のようなので、彼の家族が2階に行くことになった。より寒いし、危険ではあったけれど。
みんなが寝てしまった後、電気が使えるようになった。電気なしで過ごして24時間近くたっている。私はそれを最大限に利用しようとした。まず、熱いシャワー。しかし残念なことに、水を温めるほど十分な電流ではなく、それはうまくいかなかった。そこで、コンピュータの電源を入れ、やってしまわなければならない仕事をし、彼らを安心させ。ガザのこの戦争のなかでも1日以上は生きていたことを知ってもらうために、パレスチナ以外に住む友人や家族にメールを書いた。
2008年1月5日
寝る直前にワエルは言った。
「本当のことをいうと、僕は戦争が好きだな」
私は理由を尋ねた。
「だって、顔や手を洗わなくてもいいから。この寒さのなか、顔や手を洗わなくてもいいから。それに、朝、幼稚園に行かなくてもいいから」
「でも、幼稚園に行かなければ、爆撃を数えることができなくなるよ。だって、ワエルは50までしか数えられないでしょう?」
「爆撃を数えるのはもう好きじゃない」
彼は答えて、階段を上がっていった。
こんな小さな子に爆撃を数えさせるなんて、私はなんてバカなんだろうと思った。自分自身に非常に腹が立ってきた。
ワエルは戻ってきて言った。
「聞きたいことがあるの。少年と父親が鉄でできていても、ロケットにやられちゃう?」
「うん」
私は答えた。
「じゃ、木製だったら?」
「うん」
私は答えた。
「じゃ、樹木だったら?」
突然、私はノーと言わなければならないことに気づいた。そう言わなければ、彼は眠ることができないだろう…。