2013年12月18日はじまった「安世鴻写真展 in 練馬 第2弾」(~12月26日)のトークショーでのお話です。
中国に残された朝鮮人の「慰安婦」被害者、フィリピンの被害者を取材し、その活動、そして自分が会ったハルモニたちについて伝えたく、写真展を開催しました。
写真は37点。
ギャラリー入口には、「慰安婦」の写真を撮り始めた1996年ごろの「ナヌムの家」のハルモニたちの写真を展示しています。
そして、中国で撮りつづけている被害者の写真、カラー写真はフィリピンで会った被害者です。
1996年、韓国の雑誌に掲載するため、「ナヌムの家」の取材をはじめました。
そこに「慰安婦」がいるのは知っていましたが、自分もまだ若く、どうしたらいいのかわかりませんでした。
カメラを向けるとき、何か心に引っかかるものがありました。
「慰安婦」は戦争によって引き起こされたのですが、男性による性被害者でもあり、自分の立ち位置を見出すことができず、ジェンダーの問題をどうとらえていいのかも整理できませんでした。
自分自身が罪悪感を抱くこともありました。
最初は写真を撮るというより、話を聞くことに集中しました。
彼女たちの一言一言から、怒りの感情が伝わってきました。
「私が恥ずかしいのではない。日本人が恥ずかしいのだ」という言葉が、強烈な印象として残っています。
取材が終わっても、このことが頭に残り、「ナヌムの家」で3年間ボランティア活動をしました。
こうして一緒に過ごすうちに、頭ではなく、心で、ハルモニたちの痛みが理解できるようになりました。
私自身、日本への怒りがわだかまっていたので、「どうしたらハルモニや自分の怒りを解決することができるのか」を考えながら、写真を撮りつづけています。
男性カメラマンとして「慰安婦」被害者の女性たちを真正面から見つめるのは、大変でした。
彼女たちは自分の怒りをぶつけてくるのを感じました。
日を重ねていくごとに、ハルモニたちは心を開いてくれるようになりました。
そして、さまざまな表情を見せてくれるようになりました。
過去の話をするとき、ハルモニたちは一瞬表情を変えるのです。
その当時、ハルモニたちの生活を中心に写真を撮ろうと思いましたが、自分なりの視点が定まっていませんでした。
韓国では、「ナヌムの家」以外にも、全国の「慰安婦」の生活を見て回りました。
地方の「慰安婦」たちは、保護を受けられず、厳しい生活状況でした。
日本軍の大きな部隊が駐留した場所には慰安所があり、そこをたどれば、「慰安婦」がいました。
慰安所は大都市だけでなく、田舎の奥地にもあります。
中国に残された「慰安婦」たちは、奥地からどうやって故郷に戻ったらいいのかわからず、そこで暮らすしかありませんでした。
敗戦で日本軍から置き去りにされた女性たちは、まず中国語を覚えなければなりませんでした。
朝鮮族の集落にいる人は朝鮮語を話しますが、中国社会で暮らす女性たちは、朝鮮語を忘れてしまっています。
取材は通訳を通して行いましたが、奥地へ行くと言葉が違い、2重通訳をしてもらわなければなりません。
中国で会ったハルモニたちは最初、「私は『慰安婦』ではなかった」と言いました。
時間をかけて、少しずつ話をしてくれるタイミングを待ちました。
中国に残されたハルモニたちは、戦後50~60年間、訪ねてくる人がいなかったのです。
そこに、自分の生まれ故郷から、朝鮮語を話す私がやってきたので、少しずつ心を開いてくれました。
朝鮮語は忘れていても、アリランなどの歌は覚えていました。
写真のプリント用紙は、韓国の紙を使っています。
ただ写真を撮るだけでなく、彼女たちの歴史を記録したかったので、彼女たちに関係のある国の紙を使おうと思いました。
韓紙へのプリントは、一般の写真用紙より質が落ちますが、ハルモニたちの心の描写が伝わるといいです。
フィリピンの写真はカラーで撮りました。
フィリピンの「慰安婦」に会ったとき、中国や韓国のハルモニたちと何か違っていました。
彼女たちは、過去を隠そうとし、悪いこととして話します。
そうした内面を、歌ったり、踊ったりして忘れるという、彼女たちに対してポジティブな側面を見出しました。
歌ったり、踊ったり、一見楽しそうなのですが、彼女たちの表情を注意深く観察すると、楽しい空間にいながらも、表情が翳る瞬間があるのです。
その瞬間の表情を撮りたいと思いました。
カラーにしたのは、彼女たちの心を色で表現したかったからです。
今後もフィリピンの各地を回って、取材をつづけるつもりです。
10年間、中国に残されたハルモニたちを取材しながら、何ができるか、つねに考えてきました。
中国に残されている事実があまり知られていないので、それを伝えたかったというのが一番ですが、それとは別に、実質的な支援をしたい、と考えるようになりました。
この10年間、彼女たちの生活環境や医療は変わっていなかったからです。
そこで、あるハルモニの家に宿泊し、家を修理しました。
彼女の家は倉庫のようで、天井はなく、布で遮っただけ。夏は暑く、冬は寒い、劣悪な状況でした。
2006年から、中国に残されたハルモニたちも、韓国政府の支援金を受け取ることができるようになりました。
でも、彼女たちはそのお金をどう使っていいかわからないようです。
お金を払うだけではダメで、医療支援など、実質的な援助をしなければならないと実感しました。
写真でハルモニたちの存在を伝え、それにより、多くの人からの大きな支援につながる。
これからも取材をつづけ、みなさんとの関係も継続していきたいと思っています。
中国で会った13人の被害者のうち5人が健在で、彼女たちを撮り続け、さらに、アジア全域の「慰安婦」を取材していきたいです。
今後もこの活動に関心をもち、ご支援ください。
(2013年12月19日)
「慰安婦」は世界の性暴力被害者救済の原点『日刊ベリタ』2008年6月28日
「少女像」作家が来日講演――日韓合意の「撤去」批判 金曜アンテナ『週刊金曜日』2015年3月4日号