東北朝鮮学校と震災「大地は揺れても笑って行こう!」

仙台にある東北朝鮮初中高級学校は、今回の震災で校舎が15㎝ほど傾いてしまった。全生徒25名は現在、学生寮の部屋を仮教室にして、授業をしている。
大規模半壊と診断された校舎は、公費で解体されることがほぼ決った。ただ、再建に関しては検討中だ。この震災をきっかけに、韓国などとの交流がはじまり、3万坪の広い敷地の将来について新たな構想も生まれつつある。
一方で、県からの補助金を打ち切られるなど、財政難が現実的な問題として横たわっている。

仙台駅前からバスに乗り、「動物公園前」のバス停で下車し、さらに山道を登った緑豊かな高台に、東北朝鮮初中高級学校はある。
ユン・ジョンチョル校長に東北朝鮮初中高級学校を案内していただき、地震の被害やこれからの計画についてうかがった。

地震のときまで使っていた校舎は4階建て。

教職員用の玄関は無残に壊れていた。

「傾いた怖さは、なかに入らないとわからないんですよ」とユン校長。「大きな余震がこなければ大丈夫」の言葉を信じ、校内を見学した。
1階の職員室の壁はバタリと倒れた。

「2時46分から3分間、ワーと揺れました。その後、余震がつづいて、6分ほどでこういう状態になりました。余震は長かったですね。テレビを見ることはできないし、どうなっているかわかりませんでした。宮城沖地震のときは高校生で、ここに暮らしていましたが、今回はそれより大きかったですね」
地震が起きたとき、小学1・2年の児童は、帰りしたくをしていた。先生は子どもたちを机の下にしゃがませ、揺れがおさまってから運動場へ逃げたという。「ガラスが割れる音といったらすごいですよ。本棚もバタバタ倒れるし。子どもたちは泣いてましたよ。上級生が小さい子たちを抱きかかえて、励ましていました。お互い泣きながら。彼らの行動は本当に立派で、思い出すと目頭が熱くなります。小さい子を励ます姿は一生忘れないと思います」
誰ひとりケガをしなかったのが、不幸中の幸いだ。

大きく傾いたのは、増築した部分。そのあたりの床や壁はゴルフボールの直径以上にズレていた。

あちらこちらにヒビが入り、柱もむきだしだ。

2階に上がると、斜めに傾いているのを感じる。少し気持ちが悪い。

3階の天井の割れ目から上の階が見える。4階では、増築した壁がはがれているのがはっきりとわかった。窓枠も曲がっている。

「増築した部分とこちら側の壁が離れ、そこを境に別々に揺れていました。校庭にいたのですが、壁の隙間から向こう側の空が見えたときには、ゾッとしましたね」
階を上がるほど傾きは大きく、平衡感覚を失う。めまいがして、長く留まっていられない。

外に出ると、校舎横に大きな段差ができていた。地盤沈下したのがはっきりとわかる。

草が生えてしまって見えずらいが、校庭には地割れが何本か走り、それが現在使われている寮までつづいている。

寮も地盤沈下で建物がゆがんだ。ところどころ木材で支えてあるのは、そうしないと戸が閉まらないからだ。
新しい学校を建て直すには時間がかかるため、寮を教室として使う案が採用された。

6月に入り、子どもたちはだいぶ落ち着きはじめたそうだ。ただ、寮の部屋にはベッドが備えてあるため、窮屈なのが難点。今後はベッドを取り外し、少しでもスペースを広げる予定だ。
(写真:狭い仮教室を飛び出し、外で工作の授業をする子どもたち)

とはいえ、いつまでも、寮を教室代わりにはできない。校舎をなんとか建てるのが目標だ。
校舎は大規模半壊と判断されたため、解体の申請を済ませた。申請が受理されれば、2ヵ月後ぐらいには解体、がれきも処理されるという。

ただ、校舎を建てるにはお金がかかる。その後の運営費も必要だ。
震災において朝鮮学校として不遇な点は特になかったが、学校再建に向けての要望には平等に応えてほしいと望んでいる。「日本の学校が地震で全壊したら、税金で建てると思います。ともに宮城県に住み、税金をわずかながら納めている立場として、支援していただけたらな、という希望はあります」

地震直後、宮城県から、来年度の補助金打ち切りを言い渡された。理由は、(北朝鮮が韓国のヨンピョン島を砲撃した)昨年のヨンピョン島事件と県民感情。その事件とこの学校の子どもたちと何の関係があるのか? 県民感情とは誰に聞いたのか? 「そうした問題で補助金を打ち切るのは納得ができない」とユン校長は言う。
大阪府や東京都、千葉県でも、補助金カットの問題を抱えている。

もうひとつの悩みの種は、敷地内に放置されたままになっている昔の校舎や寮の存在だ。学校が創立された46年前から、次々に増築してきた建物が手つかずで残っているのだ。

それらの建物の被害も大きい。再度診断を受け、その結果によってはすべての建造物を解体する展望がでてきた。「廃墟のままにしておくのは、印象が悪いんですよ。まずはそれをきれいに整備したいですね」

東北朝鮮初中学校は、1965年4月25日、東北6県唯一の朝鮮学校として、大きな関心と熱意のなか、開校した。
「これが創立当時の校舎。ここを正面に落成式が行われました」

朝鮮学校の設立は、在日の人たちにとって念願だった。植民地時代、自分の国の言葉を使うことができず、学ぶこともできなかったからだ。1945年の解放以降、日本各地に国語だけを勉強する施設が作られた。宮城県にもそうした施設があったらしいが、学校の開校はビッグイベントだったのである。

校舎がある場所から階段を下りると、2階建ての建物がある。ここは1965年から1970年代まで使用されていた寮だ。

1階が食堂で、2階には講堂のような部屋。当時としてはかなり近代的で立派だったという。

「ここは洗濯部屋で、寮の子どもたちがここで洗濯をしました。小学生たちが布団を干したりね」

さらに下には、風呂場と職員が住む寮があり、その建物もまだ残っているそうだ。草が生えて、ここからは見えない。

そのころ、在日は朝鮮学校に通うのがごく当たり前だった。子どもたちは東北6県からやって来た。生徒数が増え、1968年に新しい寮が建てられた。
1970年には高校が開校した。学校卒業後は茨城や東京の高級部へ行くしかなかったが、遠くて進学を断念する子どももいたため、新設したのだ。
それに伴い、高校生用の寮も建てられた。

「ここが高級部の寮。さきほど見た下の建物が小中学生の寮で、昔はこれだけの子どもたちがいたのです」
寮の建築デザインは洒落ている。「今はボロボロですが、入口は自動ドアでね。すごくかっこよかったんですよ」 ここは13年ほど前までは使われていた。
福島出身のユン校長もこの小学校で学んだ。小学5年のときに福島朝鮮学校ができたため、中学卒業までは福島にいたが、高校でまた戻ってきた。「こんな姿になって、愕然としますね。数多くの想い出がつまっていますから」
ユン校長が学生時代には、寮生だけでも約300人はいたそうだ。自宅通学を合わせると、一番多い時期で、小・中・高校と幼稚園で約800人の生徒数だったという。
1982年に北海道に高校ができ、次第に人数が減りはじめた。「寮生活をさせてまで民族教育を受けなくても…。普通の学校に通わせてもいいじゃないか」と意識の変化もあった。「それと同時に、反省点でいえば、ニーズにあった教育をしていなかったのだと思います」とユン校長。
1979年から80年代にかけ、急激に子どもの数が減り、2009年に高級部が休校になる。高校休校の話がではじめたときから、減少に拍車がかかった。15年前までは高校生を含めて130名ほどいたが、ついには25名に激減。

若い親が教育費を捻出できないというのも、子どもが減っている原因のひとつだ。朝鮮学校は各種学校扱いであり、日本の公立学校よりもはるかに学費が高い。
教師は、校長を含めて13人。先生が比較的若いのは、結婚を機に退職せざるをえないという事情からでもある。「ただ、若い先生の力もあって、学校を維持できる部分もあるんですけどね」とユン校長は言う。
「私が就任したのは、高校の最後の卒業式が終わった年。当時は、『高校もなくなったから』としらけムードがありましたが、ここ2年は小学校に新入生が入学してきています。日本の学校に流れる現象には終止符を打ちました」
生徒を増える可能性はまったくないわけではない。今回の震災を好機にしたいとも考えている。

願ってはいなかった震災ではあるが、これがきっかけで支援の輪が広がり、これまであまり関心のなかった人に朝鮮学校の存在や民族教育を知ってもらうことができた。
学校の食堂や仮校舎の廊下には、各地から送られてきた応援メッセージが壁いっぱいに貼ってある。

韓国からも届いた。東北朝鮮学校に韓国から送られてきたものを飾るのは初めてのことだ。
「入学式に、映画『ウリハッキョ』のキム・ミョン・ジュン監督がいらしたんです。韓国でのチャリティーコンサートの収益金の一部で購入したプレゼントを持ってきてくださいました。チャリティーコンサートは、12月までつづけるそうです」 キム監督の知り合いの漫画家は、入学式に合わせて、写真を見て全生徒の似顔絵を描き、送ってくれた。

地震の被害を知り、韓国のテレビが取材し、その番組を観た仏教団体が義援金を手にここを訪れた。韓国人が在日の建物に足を運ぶのは、宮城県でははじめのことだ。「学校の現状を多くの方々に知っていただくためにひと役かっていただきました。大きな一歩を生み出してくれるのではないかな、と感謝しています」 ユン校長は、この学校を訪れた人たちが、点から点へとつながり、交流が広がることを期待する。
高校無償化や補助金カットの問題への理解、被災した朝鮮学校の支援を求める署名運動など、国籍を超えた輪の広がりを実感するという。
「20数名の在日の子どもたちためだけの学校ではなく、一般の在日や日本人、仙台市内に住む外国人たちも利用できる施設や、韓国からも自然に訪問できるような環境を作ることはできないか」 ユン校長はこの敷地の未来をこう考えている。ハングルが聞こえ、日本語も聞こえ、英語も聞こえる多文化共生の場になれば、と。
仙台の地元の人も、東北朝鮮学校について知らない人が多い。「ですから、『ヨンピョン事件と県民感情のために補助金を切る』と言うのでしょうね。ここで勉強している子どもたちは、日本語も韓国語もわかり、英語も使いこなす子になるかもしれない。仙台市にとっても、宮城県にとっても、いい人材で、それを敵視するというのは、双方の利益にそぐわない気がします」

「大地は揺れても笑っていこう」 これは東北朝鮮学校の新しいスローガンだ。近い将来、子どもたちの大きな笑いで大地が揺れ、驚かされる日がくることだろう。

(停電のなか、子どもたちがひとつひとつ手書きで作った「大地は揺れても笑っていこう」)

(2011年7月14日)

 

高校無償化で朝鮮学校が標的に 子どもの学ぶ権利は

政治的意図丸出しの北海道朝鮮学校への強制捜査――マスコミ動員し差別を助長
金曜アンテナ『週刊金曜日』10月16日号

 

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