アンジェロ・バラッカさんがイタリアの脱原発を語る

イタリアでは2011年6月12~13日、原子力発電の再開の是非を問う国民投票が実施され、9割が原発に反対という結果になりました。

イタリア政府は国民投票を阻止しようと、新聞やテレビを使って、あらゆるキャンペーンを展開したそうです。あるテレビ局は、国民投票の1ヶ月前から大々的にプロパガンダを行ったといいます。

そういう状況で、人々はどのように情報を得たのでしょうか?
広場や路上で反対を訴える活動が繰り広げられ、活動家たちが情報を提供したそうです。
それから、もちろんインターネットの力も大きかったと。

バラッカ氏は、「政府のメディア戦略にも屈しなかったという意味で、今回の国民投票は大勝利だった」と言います。

以下、インタビューです。


イタリアは、1964~65年に3基の原子炉の運転を開始しました。世界で3番目に原発を稼動させた国です。この3基は、イギリスやアメリカのそれぞれ違うタイプの原子炉で、現実的な国家政策はないままスタートしました。当時、イタリアには、原子力エネルギー関する法律が存在しておらず、3基の原子炉は、国内法で認可されもせず、一貫した計画もないまま稼動したのです。

第2次世界大戦末期、イタリア最大の産業は電力業界で、あらゆる特権を有していました。終戦を迎えても、その状況にほとんど変化はありませんでした。1949年ごろから社会党と共産党の勢力が強まり、1961年ごろに最大勢力の社会党が、電力の国有化を提案しました。電力産業が激しく抵抗し、政党間の闘争が繰り広げられましたが、1964年に国有化が実現し、Enelが創設されました。

この頃、石油も国有化(イタリア国営石油会社)しました。それに大きくかかわったのが、キリスト教民主党のエンリコ・マッティです。彼は、中東とフィフティ・フィフティの契約を結び、ヨーロッパの石油市場を独占し、国際的な石油大企業と対立しました。1962年、マッティはシシリアからミラノへ向う飛行機の事故で死亡します。明らかに石油大企業による抹殺だったのですが、一度も裁判されることありませんでした。いまになってやっと、この話ができるようになりましたが、当時は禁句とされていました。

1964年、イタリア原子力エネルギー協会の理事長フェルチェ・イッポリトが、経理上の問題で告訴されました。実際にはたいした問題ではなく、現在のイタリアであれば、誰も何も言わないようなささいなミスだったのです。その背後には、イタリア国内だけでなく、世界的な何か陰謀があったのだと思います。イッポリトは有罪となり、刑務所に入りました。その判決に比べたら、ベルルスコーニ大統領は終身刑になることでしょう。
この事件をきっかけに、イタリアのエネルギー政策は一切ストップしてしまいました。エネルギーだけでなく、イタリアのすべての産業技術の発展が止まってしまいました。せいぜい自動車を少し製造するぐらいにとどまったのです。

1970年代の終わりに、再び原発建設の大プロジェクトがはじまりました。20の原子炉を建設するといものです。20基すべて、ウェスティングハウスの加圧型原子炉を購入する計画でした。とはいえ、ここでも一貫した政策があったわけではありません。イタリアのエネルギー政策は、つねに経済的な関心に向けられ、国民のためではないのです。
20の原子炉建設計画は、全国的に大規模な反対運動を巻き起こしました。国内各地で大きな反対デモが繰り広げられました。私が反原発運動をはじめたのもこの時期です。
今回のベルルスコーニの提案もそうですが、このときにも、自治体にはかなりの補助金を出すシステムになっていました。ですから、住民はかなりの強硬な反対運動を展開しました。政策と住民の間で、かなりのズレがあったのです。

強い反対があったものの、政府は原発建設計画を推進しつづけ、1985年ごろ、トスカーナ北部のラッツィオ州に原発が建設されはじめました。そのときちょうど、1986年にチェルノブイリの事故が起きたのです。
そこで、1987年に第1回の国民投票が行われ、すべての閉鎖が決定しました。国民投票は、法案の一部の条文を破棄するかどうかを問うために実施されますが、1回目のときは、その点があいまいでした。原子力エネルギー政策を全面的に方向転換するのではなく、一部を廃棄するという形でしかありませんでした。ですから、法的な意味では、民意が反映されずに、原子力エネルギー政策は進められていたのです。

今回は原子力に関する法律の全面的な廃棄を求める国民投票であり、結果は非常に明らかです。ベルルスコーニ大統領が提案したすべてのエネルギー政策を廃止し、方向転換することが決定しました。
ただ、この国民投票の効力については、あまり認知されていません。「5年間有効」という人もいます。私の考えでは、10年後ぐらいに、原子力エネルギー政策が浮上したとしても、ベルルスコーニの提案と同じ形では提出できないだろうと思っています。
しかし、確信はありません。
今回、水の民営化についても国民投票で却下されましたが、同じような法律が作られはじめています。ですから、原子力に関しても、何ともいえません。ただ、原子力エネルギーの法案は、当分出てこないと思っています。

フクシマ事故の影響は大きく、あの事故がなかったら、国民投票は成立していなかったかもしれません。「価値あるイタリア」が原発を国民投票にかけたのは2010年で、事故の1年前でした。最初のうちは、反原発の運動が全くなく、国民投票も50%に達しないのではないかと言われていました。
フクシマ原発事故がイタリア人に反原発へと向わせ、投票率57%、反対93%という結果になりました。とはいえ、43%は原発推進派です。

今回、イタリア人は原発への拒否反応を示しましたが、大きなデモや反対運動はありませんでした。1970年代末から80年代初頭にかけてのような大規模な運動が起きませんでした、その当時は、旧ソ連の核軍備拡大など、原子力の反対運動は、核兵器と密接に関係していましたが、今はそういった動きはありません。

国民投票の結果のイメージで、イタリア国民は原発反対だと思っているかもしれませんが、科学者や医師の分野の反原発派は少数です。技術系の科学者はほとんどが推進派です。物理学者も、推進派というほどではないにしても、ややその傾向が強いでしょう。生理学の分野では反対派が多いといえます。
医学に関しては、イタリアに放射線学部はほとんどないため、その専門家は少なく、反対か推進かを判断するのは難しいです。
現在、パレルモ、ローマ、ピサなど5つの町の大学にのみ、原子力工学部が残っています。廃炉になってからは、原子力関係の研究はストップしています。5つの原子力工学部はみな推進派です。

イタリアでも実際、アカデミックな世界で反原発は歓迎されませんが、日本ほど危険ではありません。キャリアに傷はつきません。イタリアの科学者が反原発を表明するのは、さほど難しくはありません。フランスの科学者が反原発を表明するのは、非常に厳しい状況だと思います。
私はつねに原子力エネルギーに反対してきましたが、同僚から排除されたり、敵意を感じたことは一度もありません。自分のキャリアを脅かされるようなことはありませんでした。

イタリアがフランスから電力を輸入しているのは、単にビジネスの問題です。輸入をやめても電力不足にはなりませんが、政治的、そして電力会社の問題とからみ、簡単にはやめることができません。
原子力エネルギーの選択は政治的です。日本は国際的にも最先端の技術を持つ国のひとつですが、再生可能エネルギーが発展していません。それは政治的選択なのです。

イタリアは間接的に原子力稼動に関与しています。イタリアの電力会社Enelが、スロバキア、スペイン、ブルガリアの原発運営企業の株を有しているからです。
国営のEnelは、87年の国民投票の結果に従う義務があったのですが、90年代に民営化してからは、イタリア人は何も言えないのです。
法律でイタリア国内には原発を建設できませんが、どこで何をしようが、どうしようもありません。そういうものなのです。

国民投票の後、原発問題について、一般市民と学生の関心は薄れている傾向にあります。国民投票を終えたことで問題が解決した、という気持ち、それ以上に、経済危機が現実問題だからです。
ただ、これだけ重大な経済危機にありながらも、大きなデモは起きません。イタリアでも、人々がバラバラになっていているのを感じます。
原発問題はもはや埋もれています。少し前にフランスで事故が起きたときに、ニュースになりましたが、それだけのことでした。個人的には、フランスで大事故が起きるのではないかと恐れています。

その意味で、みなで国際的でやるしかないのです。国際的につながって、反対していくしかありません。ドイツは今、強い反対がありますし、日本でも広がっているでしょう。
科学者などたちによる国際的な連携が取ることが、大きなポイントとなると思います。
グズビー博士やガンダーセン博士と同じく、私たちは完全に、ICRRに反対しています。この数値は人体によいとは思えません。

政策を変えていく挑戦はできます。そのひとつが、再生可能エネルギーを強力に発展させ、将来的に脱原発を実現するための法案へと移行させていく方法です。

もうやるしかないですね。私は年をとっていますが、まだがんばっています。

(2013年11月9日)

フクシマの事故で脱原発へイタリア国民投票後の課題
イタリアの国民選挙(2011年6月)で廃炉が決まったのは、フクシマの影響が大きい。次は私たちが、日本に協力する番。国際的な連帯を強め、世界の脱原発を実現しなくてはならない。1970年末から一貫して反原発運動をつづけているバラッカ教授が語る。

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