『週刊金曜日』「『金曜日』に逢いましょう」2012年1月13日に掲載された記事です。
フクシマの事故が脱原発へ イタリア国民投票後の課題
フィレンツェ大学物理学部のアンジェロ・バラッカ教授は、一九七〇年末から一貫して反原発運動をつづけている。
「国民選挙(二〇一一年六月)で廃炉が決まったのは、フクシマの影響が大きい。次は私たちが、日本に協力する番です。国際的な連帯を強め、世界の脱原発を実現しなくてはなりません」
あまり知られていないが、イタリアは、一九六四~六五年に三基の原子炉が稼動させており、アメリカ、イギリスに次いで世界三番目の原発先進国だった。その後、原発建設は一時停滞し、第一次石油ショックで計画が再開する。
この頃から、イタリアでは科学者や一般市民の原子力への不信感が高まっていった。バラッカ教授もまた、イタリアの脈略のない原発政策に疑問を抱き、原子力に関する研究に傾倒していく。
一九七七年、イタリア政府は、原子炉二〇基を建設する大プロジェクトを提案。この計画に、大規模な反対運動を巻き起こり、国内各地で抗議デモが繰り広げられた。
「イタリアの原発政策はつねにビジネス優先で、国民の利益は二の次」 バラッカ教授もこれを機に、反原発運動に深く関りはじめた。
チェルノブイリ事故の翌年(一九八七年)の国民投票でイタリアは「全原発の停止」の決断を下す。それ以降、原子力問題が取りざたされない時代がしばらくつづいたが、二〇〇八年、ベルルスコーニ政権が原発再稼動に動き出した。
バラッカ教授は、「原発問題に鈍感になり、反原発運動が存在しない」イタリアの状況を危惧し、『L’Italia Torna al Nucleare?』(イタリアは原子力に戻るのか?)を出版するなど、活動を開始。二〇一〇年に原発再稼働の是非を問う国民投票の実施が決定してからは、公開討論や講演会などを活発に繰り広げた。
政府はマスコミを利用し、国民投票阻止のプロパガンダを展開していた。そんな中での「草の根」の運動だった。
街頭活動などもないわけではなかったが、全国規模での抗議デモにはいたらず、焦りも感じたという。七〇~八〇年代の反原発運動の勢いを目にしているバラッカ教授によれば、今回のイタリア人の態度は、実に冷めたものだったそうだ。
「フクシマの事故がなければ……」とバラッカ教授は漏らす。
実際、福島第一原発の事故が決定打となった。三月十一日以降、世論が脱原発へと大きく傾いた。ただ、バラッカ教授は、「すさまじい事故を見て、拒絶反応を示しただけ」と分析する。現に、イタリアでは、国民投票で決着がついたかのごとく、原発への関心が急速に薄れている。経済危機をはじめ、国内には優先されるべき問題が山積みだからだ。
「国内での原発建設は違法ですが、イタリアは間接的に原発稼動に関与しています。イタリアの電力会社ENELは、スロバキア、スペイン、ブルガリアの原発運営企業の株主です。国営であれば国民投票に従う義務がありますが、民間企業には何も言えません」
イタリアでもまだ闘いは終わっていない。国を超えた脱原発に向けて、何をすべきか。
「政策を変えていく挑戦はできます。そのひとつが、再生可能エネルギーに有利な法律の整備です。やるしかないですね。まだまだがんばっています」
Angelo Baracca
ミラノ大学物理学部卒業後、フィレンツェ大学で博士号を取得。1968年よりフィレンツェ大学で統計力学や高エネルギー物理学などを教える。2009年の退職後も同大学で教鞭をとりつづけるかたわら、執筆や講演会、キューバの大学との協働研究など、国内外で活躍中。