開国前に函館に上陸した幕末をゆるがしたフランス人たち

『カイ』2010年秋号に掲載された記事です。

幕末をゆるがしたフランス人たち

まずは実行寺からはじめよう。この寺の境内には日仏友好を象徴する碑が建っている。1855(安政2)年、この寺にフランス人がやって来た。日仏修好通商条約が結ばれる3年前のことである。

1854(安政元)年3月(旧暦、以下同)の日米和親条約締結で、下田とともに開港された箱館。ペリー艦隊につづき、箱館港に突然姿を見せたのは、フランスの軍艦シビール号だった。寄港の目的は、水と食糧の補給。それから、艦内に多数の病人が発生したため、陸上で養生させることだった。箱館奉行の竹内下野守は、とりあえず病人を実行寺に収容し、療養させる許可を出した。

1843年創刊のフランス紙『イリュストラシオン』には、当時の記事が掲載されている。(『フランスからみた幕末維新「イリュストラシオン」日本関係記事から』東信堂より引用、……は筆者中略)

「1855年8月1日(新暦、筆者注)、われわれは……箱館に錨を下ろそうとしていた。壊血病のために大量の者が死んだフランスのフリゲート艦シビール号が、イギリス師団の一部とともにわれわれの到着を待っていた。……われわれの到着の翌日、陸でゲラン提督と箱館奉行の会見が行われた。……『……フランスとは条約を締結しておりません。しかしながら、フランスのために、人道主義の法に照らしてわれわれの法を黙らせましょう。――あなたがたに不足している食糧、水、薪はわれわれの世話で供給してさしあげましょう。疲労した乗組員は陸に上がってもよろしい……』 そして2週間後にわれわれは、……シビール号に収容することのできない50人の病人を病院に改装された寺に残し、タルタリー [韃靼地方] に向かって出発したのだった」(1856年11月8日号)

つづいてヴィルジニ号、コンスタンティヌ号が入港した。「……われわれは、すでに条約を結んだ国々と同じ条件で扱われている。病人たちは陸上で、主要な寺院の1つの付属施設に急ごしらえに作られた病院に収容された……」(1857年5月9日号)

フランス艦船が相次いで箱館に入港したのは、クリミア戦争の余波である。トルコ領土を狙うロシアに対し、イギリスとフランスらがトルコ側として参戦。英仏の艦隊は、カムチャッカ、千島、樺太、黒龍江あたりまで出航し、ロシアの南下を妨げる作戦に出たのだ。

実行寺は1655年草創の松前法華寺の末寺で、1879年の大火後に移転し、1918年に現寺院が完成した。

望月伸泰住職は、「奉行所はどの寺に収容させるか迷った末、ここに決めたそうです。秘密裏だったため、公文書は残っていません」と色鮮やかな本堂へ案内してくれた。この4倍の広さだったという本堂で、600人のフランス人を数ヶ月間受け入れたそうだ。

それだけでなく、病人たちに栄養をつけるため、寺の農園で生産した卵やキャベツなどの農産物をふるまったという。

1855年秋、二人のフランス人水平が死亡したといわれる。遺体は、山背泊の共同墓地に埋葬された。この地は、プロテスタントやロシア正教などの外人墓地になっている。墓ははっきりとわからないが、フランス人水平は港を見下ろす丘に眠っている。

 

幕末にフランス文化を伝えたメルメ・カションの功績
1859年11月に箱館に赴いたパリ外国宣教会のカションは、称名寺境内に、横浜仏語伝習所の母胎となるフランス語学校を設立した。12月には司祭館の建設に取りかかった。これが、後のカトリック元町教会となる。フランス初のアイヌ民族に関する書物も書いた。
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