幕末にフランス文化を伝えたメルメ・カションの功績

『カイ』2010年秋号に掲載された記事です。

実行寺の隣には、イギリスおよびフランス領事館が置かれていた称名寺がある。松前光善寺の末寺で1644年に開基。明治の大火でこの場所に移した。

「箱館開港物語」の著書もある須藤隆仙住職は、寺が領事館として利用された理由を「あらたに建設する時間がなく、大きな建物といえば寺ぐらいしかなかった」と説明する。前述の実行寺にはロシア領事館、東本願寺にはアメリカ領事館が置かれた。

「箱館の開港は安政時代。その後、国交の相手国は15カ国ほどに増えました。長崎や横浜にはロシアが寄港していませんから」と須藤住職は国際色の豊かさを強調する。

この寺で過ごし、日本の幕末の歴史に残した人物が宣教師メルメ・カションである。

パリ外国宣教会のカションは、布教のために1855年に琉球に滞在し、日本語(琉球語)を修得。1858(安政5)年9月の日仏修好通商条約締結の際、フランス全権公使グロ男爵の通訳に任命され、下田に来航した。幕府の外国奉行たちは、カションの堪能な日本語に驚いたという。

1859年11月、箱館に赴いたカションは、称名寺の一棟を住居にし、12月には司祭館の建設に取りかかった。これが、後のカトリック元町教会となる。

教会が現在の場に完成したのは、カションが去った後の1867年。ムルクー神父が箱館奉行の土地を借り受けて建てた。ゴシック様式の現教会は、1921年の大火後に建造された。

教会の裏手には、100年ほど前に造られたルルドの洞窟とマリア像がひっそりたたずむ。土台は、1877年建立の教会が焼失し、その際に出た石を再利用している。

キリスト教が禁じられていた時代、布教は思うようにいかなかったが、カションの残した功績は大きい。そのひとつが、フランス人医師を招聘しての本格的な病院の設立計画である。箱館奉行に病院創設を提案し、土地を借り入れ、着々と準備を進めた。しかし、ロシア正教司祭団が巨額を投じて大病院を建設してしまったため、カションの計画は頓挫してしまう。

二つ目は、称名寺境内に設立されたフランス語学校(コレージュ・ド・フランス)だ。この語学学校は、後に創設される横浜仏語伝習所の母胎となった。

幕府がフランス語教育を奨励するきっかけとなったのは、フランス語を外交語とするロシアの接近にある。1806年、ロシア使節レザノフの部下フヴォストフ大尉が樺太に来航した際、松前奉行所宛にフランス語の外交文書を残している。この文書はオランダ語から日本語に重訳された。このとき幕府はフランス語の必要性を痛感し、学習の命を出したという。

カションは箱館奉行の役人・栗本鋤雲と日仏の語学交換を行った。栗本は江戸に戻り、軍艦奉行、外国奉行などを歴任する。二人の交流は、幕末のフランスと幕府の親密な関係に大きな影響を与えた。

また、生徒のなかには、遣欧使節団の通訳として渡欧し、後述する横浜製鉄所・横須賀造船所建設に尽力した立広作や塩田三郎など、幕末の日仏関係で重要な働きをする者もいた。

カションはさらに、「アイノ」「仏英和辞典」「日本養蚕論」の3つの著書をパリで刊行している。「アイノ」はフランス人では初といえるアイヌ民族に関する書物である。

1863(文久3)年3月ごろ、“家庭の事情”を理由に箱館を去ったカションは、江戸に出て、塾のような会を立ち上げ、フランス語を教えていたらしい。そして、1864(元治元)年に着任した第二代駐日フランス公使レオン・ロッシュにより、通訳として採用された。

 

開国前に函館に上陸した幕末をゆるがしたフランス人たち
日仏修好通商条約が結ばれる3年前1855(安政2)年、フランスの軍艦シビール号は箱館港に寄港。艦内に多数の病人が発生したため、陸上で養生させるのが目的だった。箱館奉行の竹内下野守は、とりあえず病人を実行寺に収容し、療養させる許可を出した。
タイトルとURLをコピーしました