「30年後の日本」を見すえた地域医療 訪問医療の実践

『月刊自治研』2014年9月号に掲載された記事です。

過疎の町の訪問診療の実践

二〇二五年には六五歳以上の高齢者が三〇%を超すと予測され、国は高齢化社会に向けて在宅医療の方針に転換した。厚生労働省は数年前から「地域包括ケアシステム」という言葉を頻繁に使いはじめたが、地域医療体制は整備されておらず、医療関係者や利用者の不安は尽きない。

自治体の多くが地域医療のあり方を模索しているなか、三〇年以上も前から、過疎の町で地域医療の実践に挑んできた病院がある。鳥取県日南町の国保日南病院だ。

日南町は中国山地のほぼ中央に位置する、島根、岡山、広島の三県に接した山陰の町だ。一九六〇年の人口は一五〇〇〇人を越えていたが、年々減少し、一九七五年には一万人を切った。

一九八〇年ごろ、町内唯一の公立病院である日南病院は、常勤医師の確保が困難になり、診療所への降格の危機にあった。そこへ梶井英治医師が自治医科大学から派遣され、病院職員と住民が一丸となって病院存続の運動を繰り広げ、診療所になるのは免れた。

一九八二年には安東良博元院長が日南病院に赴任。地域包括医療を提唱する山口昇国診協名誉顧問と親交があった安東院長は、ここで訪問診療と訪問看護をスタートさせた。訪問看護には診療報酬がなく、実施している医療機関も非常に少なかった頃のことだ。

高見徹医師は、一九八五年、三六歳のときに鳥取大学の医局から日南病院に派遣された。そのときの率直な感想は、「過疎の町でも高齢化で医療がこれほど大変になるなら、都市はいったいどうなるのだろう?」だった。

都市の高齢化は避けられない。であれば、日南町のような「三〇年先に高齢化した町」で地域医療を学ぶしかない。高見医師は一年間の任期中にそう心に決め、「大学病院を辞めたら、日南病院でお世話になります」と安東院長に言い残していったん大学病院に帰る。そして、一九九三年、約束どおり日南町に戻って来た。

日南町の現状を目にしたとき、高見医師が「都市の高齢化」に考えがおよんだのには根拠がある。医師になる前は東京大学保健学科に在籍しており、厚生省(当時)所轄の人口問題研究所での実習の際に、自分たちが六〇歳になるころの人口推移などを頭の中にたたきこまれていたからだ。

しかし、高見医師が日南町に移った八〇年代中ごろは、「都市に地域医療など必要なのか」という認識だった。周囲には「どうして高齢者ばかりのところに行くんだ」と不思議がられたという。

右肩上がりに経済成長してきた日本は、「医療費が上がったらいつでも補填する」と大見栄をきり、「在宅が無理なら病院に入院させておけばいい」とタカをくくっていた。

「賭けみたいなものでしたけど」と高見医師は振り返るが、高齢化はまさに推測通り進み、地域医療を顧みなかった日本は現在、深刻な問題をつきつけられている。

「老々介護」が悲惨なのは地域医療が存在しないから

日南町の人口は五四三五人で、六五歳以上の高齢化率は約四六%(二〇一三年四月現在)。通院できないで往診を待つ人は約一四〇人いる。

高見医師は院長になった一九九七年以降ずっと、午前中は外来、午後は訪問診療という日課をつづけている。平日の四日は地域に出かけ、一日七~八軒、年間にすると二〇〇〇軒ほど訪問する。日南町は面積が広く、五軒回るだけで走行距離が一〇〇キロを超えるときも。

「『大変でしょう』と言われますが、楽しいですね。病院の中にいるほうが、体調が悪くなる感じがしますよ」と高見医師は笑う。

十数年前、在宅での看取りがまだ珍しかったころ、日南町では在宅死が三割ほどになった。その発表を聞いた医療関係者は、「お前たちはちゃんと医療しているのか」と非難の言葉を投げかけたという。その後、どの病院も在宅での看取りが増え、その大変さがわかってくると、「日南病院がんばってますね」との反応に変わった。

高見医師自身、在宅での看取りのとらえ方が変化したという。「入院して一週間以内に亡くなるのは、立派な在宅死ではないかな、と。九九%在宅で看ていて、一%だけ病院というのも、在宅死とみなしたほうがいい。昔は介護者に『あと一週間だからがんばれ』と言っていましたが、それも変な話。そういう反省もあり、介護者が望めば、最後は病院で看取ってあげてもいいと考えるようになりました」

昨今、高齢者が高齢者を介護する「老々介護」や、認知症の人が認知症の人を看る「認々介護」がよく話題にのぼる。日南町でも、「老々介護」のケースが多い。しかし、高見医師はきっぱりと言う。「マスコミは『老々介護』や『認々介護』が悲惨なもののように報道しますが、悲惨なのはそこにいい地域医療がないだけのことです。日南町にいて、老々介護を悲惨だと思ったことはありません」

老夫婦だけに介護を放り投げられたら窮地に陥るのは当然だ。だが、たとえば、寝たきりの夫の介護で疲れているおばあさんに、「ショートスティで二週間ぐらい預かりますから、休んでください」と手を差し伸べるなど、介護者含めて目が行き届く地域医療が存在すれば、乗り越えていけるのだ。

地域の支える力をつけてこそ〝地域医療〟が実現

日南病院は一九八三年以来三一年間、黒字経営がつづいている。しかし、地域医療が抱える課題はどこも同じだ。

「人材不足、それに尽きます。医師、薬剤師、一番頭が痛いのは看護師です。必死で探していますが、なかなか……。医師が僕のように留まるのは時代遅れで、これからは、『五、六年勉強して都市に帰る』循環型ルートができるといいかな、と思っています。それも難しいのですが」

今は自治医科大学から二人、鳥取大学から一人の医師が一~二年の任期で派遣され、やっとこなしている状況だ。

「僕の経験だと、地域医療を肌で感じるには最低五年かかります。『来たころより良くなった』と見えてきてはじめて、『がんばってよかった』と実感しますから。それを経験した後で都市に帰るのが一番いいのですが……」

高見医師が赴任してきたころの日南町は、患者を地域に帰そうとすると、「困ります。家で看ることはできません」という雰囲気だった。それが少しずつ変化し、「落ち着いているなら家で看ます。何かあったらお願いします」と地域の支える力がどんどん増していった。

「病人を家で看るのは大変なんですよ。考えただけで気が重くなるでしょうから。地域医療をちゃんとやっていない場所では、『家に帰る? 車いすだから困ります。昼間誰もいないのに』で終わってしまうのでしょうけど」

医師たちが外に出だした一九八三年、こんなエピソードが残っている。当時の安東院長が訪問したとき、おばあさんが、「三か月も風呂に入っていないので、汚い体を先生に診てもらうなど失礼だから」と診察を拒否した。そこで安東院長は、「では風呂に入ってもらおう」と、看護師らと折りたたみ式の簡易浴槽をたずさえ、寝たきりの高齢者宅を回りはじめた。当時としては画期的な行動だった。

「住民が地域に安心して暮らせるような訪問医療を何年も展開しつづけると、信頼関係が生まれ、町は自然に変わっていきます。『あそこのおばあさんが在宅で診てもらってる。うちの寝たきりのおじいさんも診てもらえませんか?』という意識が当たり前になっていくのです」

こうした日南町での実践を通し、高見医師は「地域医療の充実には動かしがたい三つの段階がある」との確信を得た。「どこで誰がどのように生活しているか」を把握する第一段階。保健・医療・介護・福祉の関係者たちが、病気になっても安心して地域に暮らしていくためのアクションを起こす第二段階。そして、このアクションを五年や一〇年つづけると地域が変わり、地域づくりをする第三段階に入る。

この三つの段階は、過疎の町でも都市でも、日本でも外国でも通用する。

「カバンを下げて地域に出かけて病気を治すのは、僕に言わせたら〝地域医療〟ではない。地域医療というからには地域を変えてなんぼのものですよ」

長年の実践を都市に地域医療を伝える時代に

最も重要なのは、「誰がどこにどのように生活しているか」を知る第一段階だ。この第一段階が終われば地域医療のほぼ半分が達成される。その部分が抜け落ちているという理由から、「都市には地域医療がない」と高見医師は自信を持って言い切る。

一~二か月もたってから発見される孤立死が、まさに第一段階の欠如を示している。誰も関心がなく、誰も把握してないのだ。高齢化が進めば、都市に地域医療が必要になる。日南町ですら数々の苦労の末、今を築き上げてきた。規模の大きい都市こそ、地域医療をしっかり根づかせないと、まったく手に負えなくなる。

「都市は都市でコンパクトにうまくやれば、能率よくできるのではないか」と高見医師は言う。たとえば、都市をコミュニティ単位で分割する方法だ。「一万人単位がいいんじゃないかな。国は二万人規模の中学校区と言ってますけど、少し広すぎて、顔が見えなくなる」

日南町の実践の仕方とは違っても、やるべき三段階は同じだ。地域を把握し、地域のニーズに保健・医療・介護・福祉の関係者たちが応えつづける。するとやがて、地域を支える人間が育ち、コミュニティ自体が変わってくる。

誰がどこでどのような生活をしているか。こうした情報の収集は、個人情報にもかかわるため、都市ではなおさら容易ではない。

基本的には地域包括支援センターが統括するのがいい。そのためには、「都市が地域包括支援センターを業者に丸投げしている」状況を改善しなければならない。「今後は行政が、コミュニティごとにその地域を把握する地域包括支援センターにしっかり作り上げていくべきです」

日南町の地域包括支援センターは、病院のすぐ脇にある。週一回月曜日には、保健所、介護、福祉のスタッフが三〇人ほど集まる在宅支援ケア会議を開く。「誰がどこでどのようなことで困っているか」「あの患者が退院するので地域に帰ったらこういう点に注意してあげてください」といった情報を、地域包括支援センターに一括させるのが目的だ。

また、院提「町は大きなホスピタル」にもあるように、行政のトップと保健・医療・介護・福祉との連携がとれているのも、日南町の良い点だ。町長、副町長、総務課長、福祉保健課長は月一回病院を訪れ、病院のスタッフと意見交換し、同じ方向をみて動いている。

「日南町で学んだ地域医療を都市に伝えられないのなら、何をしにここに来たのかわからない」とまで言う高見医師は、都市で地域医療を担う人材の育成にも積極的に取り組む。伝える都市として重点を置いているのは、日南町の隣、人口一五万人の米子市だ。

今後は医師だけでなく、あらゆる職種と組んで総力戦で立ち向かわなければならない。その考えに基づき、介護保険が施行された二〇〇〇年に米子市に西部ケア研究会を立ち上げた。年三、四回の例会には二〇〇人前後の人が集まる。医師、歯科医師、薬剤師、保健師、看護師、ケアマネ、ヘルパー、理学療法士、栄養士、米子市の保健衛生課職員など、参加者の顔ぶれは多彩だ。米子市の高齢化を担う、すぐれた人材がたくさん育ってきているという。

都市に日南町のようなモデル地区を作るのが理想で、八年前から米子市を説得しているが、まだ実現していない。「米子市にモデル地区ができたら、西部ケア研究会のスタッフの実践の場になるのですけどね」

地域医療が成功するかどうか。最終的にそのカギを握るのは、コミュニティづくりにかかっている。

「一番残念なのは、日本が戦後豊かになり、コミュニティの重要さに思いがいたらず、コミュニティが崩れてしまったことです」 そう高見医師は嘆く。「本当に追い詰められてくると、コミュニティの大切さがわかります」

コミュニティは最後のセイフティネットだ。いいコミュニティのなかで暮らしていなければ、親子関係にも決定的な亀裂が生じる。以前はもめごとの仲裁者がたくさんいたが、今ではそういう人がおらず、その結果、「殺すか殺されるか」の行きつくところまでいってしまいかねない。

「昔のコミュニティがすべていいわけでもないけれど、コミュニティは新しくしながら受け継いでいかないといけないもの。それを日本人は忘れてしまいました。一番大切な、人間は社会的動物であり、『ひとりでは生きれない』ということを」

「三〇年後の日本」を見すえ、長年、地域医療を実践し、地域づくりに尽力してきた日南病院。今託されている使命は、この町で展開されてきた地域医療を都市に伝え、都市の人材を育成し、都市のコミュニティを再生することにある。

急速な高齢化社会を目前に、もはや一縷の猶予も許されない日本。過疎の町の地域医療が都市で試される時期にきている。日南病院の果たす役割は大きい。

 

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