自然豊かな地なのに「なにもないところだから原発」と

8月4日、札幌から飛行機で広島へ向った。
新千歳空港がリニューアルしたので、少し早めに空港に行ってみた。
新しくなったフロアは、ほとんどが食べ物屋。
都心の駅ビルとほとんど変わらず、ピカピカごちゃごちゃしていた。

空港の人ごみに疲れてしまい、飛行機の中で爆睡。
目が覚めたら、瀬戸内海の上空だった。
海に浮かぶ緑の島々が目に入った。とても美しい。
でも、広島でお会いした山口県上関町の方から聞いたのだが、日本の海岸線で埋め立てされていない自然海岸は25%しかないそうだ。
上関原発建設予定地の長島は、75%の自然海岸が残っているという。
その大部分が開発されてしまっていても、空から見た瀬戸内海は美しい。
開発される前は、もっともっと素晴らしかったに違いない。

広島からの帰路は、日本海に抜けて、北海道へ向って飛んだ。
お天気が良かったので、ずっと地上が見えた。
緑にあふれの山陰の山々を横切り、日本海側へ出る。
ゆるやかな曲線を描く海岸線が、北に向かってのびている。
空から見る限り、日本は自然豊かで美しい。

このところ原発問題に関心が向いているので、「あの辺にも原発があるはず」と目を凝らしてみる。
もちろん、見えなかった。

福島第一原発事故以降、山口県の上関町、静岡県の浜岡町、北海道の泊村、そして福島県を訪ね、その地域を知っている人と話をしたりしてきた。
共通している言葉がひとつ。
「あそこはなにもないからねぇ」

空から日本を見ていて、ふと思った。
飛行機のファーストクラスに乗る類の人たちは、まさしく上から目線で、こう考えるのだろう。
「あそこは何もない、原発を建てるのにちょうどいい」と。
自然の美しさやそこに住む人々をイメージできない感性に欠ける人たちにとって、集落もなく、道路もない場所は、土地が遊んでいるようにみえるのだろう。
空の上からは、そこにある生きものの暮らしは見えない。

「なにもない」というのであれば、なにがあれば「なにかある」というのだろう?
「なにもない」とはいえ、自然があり、生態系があり、人が住み、ささやかであっても産業がある。
そこでの産業、その多くが第一次産業だと思うけど、それがささやかなのは、そうした産業で豊かな暮らしができる政策をとってこなかったからだ。

なにもないわけではないのに、「なにもない」と表現してしまうように、私たちはいつのまにか洗脳されてしまった。
そこにある価値を見直す必要があると思う。

(2011年8月15日)

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