ベルリンの壁崩壊後の東欧民主化を体験した若者たち

冷戦終結後の90年代初頭にポーランド人、ルーマニア人、スロバキア人と交わした短い会話を紹介します。

彼らと話したことは、30年近く経ったいまも、心に残っています。

ベルリンの壁崩壊したのは、1989年11月9日。
その後、東ヨーロッパ社会主義諸国は消滅し、次々と民主化しました。

1991年にロンドンに住みはじめた当時、語学学校にはたくさんの若い東欧の留学がいました。
東欧、特にポーランドからの若者が多く。

パリでも東欧の若者と出合いました。


ベルリンの壁が崩壊した後、東欧からたくさんの若者がイギリスにやってきた。
ビザ取得のための偽装結婚問題も起きたほどだ。

語学学校のクラスは、日本人とポーラランド人が圧倒的ということも珍しくない。

ワルシャワからロンドンに英語を勉強しにやってきた彼は30歳で、いかにも真面目なタイプ。
ちゃらんぽらんに英語を勉強している私とは大違い。

その彼と、年齢の話になった。

「え? 僕と同じ年?」
信じられないといった顔をする彼。

「日本人は若く見えるね」
そこまではよかった。

「たぶん、悩みがないからだろう」
そう言われて、カチンときてしまった。

「それって、日本人が何もものを考えてないってこと?」
とっさに出た言葉で、二人の会話は終わってしまった。

冷静に考えてみたら、彼は間違っていない。

ポーランドが民主化したのは、彼が27歳のとき。

それに比べて、自分の20代はバブルの真っ最中で、お祭り騒ぎのような雰囲気だった。
顔の筋肉がゆるみっぱなしだったのだろう。

若く見えるのはうれしいが、苦労を知った人の顔は、また違う魅力を持っている。
日本人のように、うかれたあとの疲労感で、精気を失った顔よりも。

1992年、ロンドンにて


ルーマニア出身の彼は、パリの高級ブティック街モンテーニュアベニューのブティックでバイトをしているという。

「君は日本人? この店にも、よく日本人が来るよ」
私は彼に何を聞こうか戸惑った。

ルーマニアといえば、コマネチぐらいしか思い浮かばない。
20代前後の彼は、コマネチが活躍した頃、まだ生まれていなかったのでは?

もたもたしていたら、彼が、「パリは好き?」と聞いてきた。

「好きだよ」

「僕も好きだよ。カフェはあるし、何といっても、自由な雰囲気が気に入っている。やっぱり民主主義は素晴らしいよね」

そう言って、はにかむように笑った。

彼は、本当に“民主主義”の価値を実感しているようだった。

重く暗い社会で生活していた人にとっての、自由で開放感あゆれる暮らし。

それまで私は、“民主主義”の素晴らしさを考えたことがあっただろうか?

生まれたときから、とりあえず民主主義の国だった。
子ども時代は高度経済成長期で、社会人になってバブルを経験してきた私たちは、何の疑問も持たず流されてきた。

彼が実感している“自由”が、失望に変わらないことを望むばかり。

1992年、パリにて


スロバキア人の彼は、モデルの仕事をはじめたばかりだという。
背が高く、甘いマスクが魅力的な青年だ。

「パリはまだ来たばかりなんだ」

「スロバキアで何をしてたの?」

「学生。まだ卒業してないから、夏が終わったら、とりあえず帰るよ」

スロバキアについて、何から聞いたらいいのやら。
知ってることがあまりにも少なすぎる。サッカーか?

「何もかも、チェコのほうが有名だからね。プラハもチェコだし。チェコスロバキアの頃だったら、もっと話ははずんだかもね」

「スロバキアって、言葉は何?」

「スロバキア語」

「チェコ語も話す?」

「うん。ロシア語、ドイツ語も。英語、フランス語、アラブ語も少し。レバノンに行ったことがあって、興味があったから」

「まさか、スロバキアの人みんなが、そんなにいろんな言語話すわけじゃないよね」

「うーん、でも、スロバキア語、チェコ語、ロシア語ぐらいは話すかなー」

すごいねーと感心していたら、「日本人の女の子ってどんな感じ?」と聞いてきた。

「一般的に」と聞かれると、とても困る。

「一般的には、あまり強いタイプじゃないかも」

「ふーん、スロバキアの女性はすごく強いよ。恐いぐらいに」

やさしそうな彼にとって、手ごわい相手?

「でも、強い女性が嫌いなわけじゃないから、平気」

残念ながら、スロバキアの女性の具体的なイメージはつかめなかった。

「スロバキアは、独立してから、あまりいいことないんだ。独立運動をがんばった人だけが、満足しているのかもしれない。いいところを全部チェコにとられて、経済的にも遅れているしね」

1998年、パリにて

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