原発のリスク保険は誰が払うべきか?

フランスのメディアTera-Eco電子版の2011年6月13日に、「原発事故のリスク保険」に関する記事が掲載されました。

記事は次のような内容(全訳ではありません)。

原発事故を予想して、消費者に課税し、共同資金を積み立てなければならない。しかし、その金額は? そして、誰が運営するのか? 原発は民間セクターにとどめておくべきだろうか?

福島第一原発事故の損失額は、厳密に見積もるのは不可能だ。人々の苦しみや不安、生態系の崩壊はお金に換算できるのだろうか? 金銭での見積もりには限界があるケースとして、2つの項目がある。

・災害復興にかかわる費用:心の健康に関してはもちろんのこと、地域住民へのケアと補償を考慮に入れながら、地上と海上を元の状態に復興するうえでの危機管理。

・経済的損失(流通の断絶、東京電力の価値損失、日本の株価の下落、経済活動への影響、日本および海外の原子力産業とそれに伴う産業の雇用、既存原発の安全に必要な再建費用、今後徐々に脱原発に向けるための費用など)。規模の程度や項目ごとの合計額を知るには時間がかかる。津波の影響をどのようにしてうまく区別するか? 確実にその総額は、1000億さらには1兆ユーロになる。

これらの費用はオペレーターが援助してくれるのではなく、支払う側の国(つまり国民)と補償されない被害者、もしくは、国か被害者がけりをつけるということをみなわかっている。

なにより、原子力エネルギーの消費者にリスク保険料を払わせるのは、論理的であると思われる。化石燃料による発電の気候への影響を懸念し、そして、十分とはいえないまでも、ヨーロッパ市場で割当量が決められ、長年望まれてきたのである。民間保険会社は原子力の危険性に向き合おうとしなかった。解体の貯え(総額が問題になったとしても)と事故時の現金化に適した共同資金の創設には慎重である。原発保険を増加するのは容認しかねるだろう。結局のところ、総額の計算が残されている。一方では重大事故の可能性、もう一方ではその事故に関連した損傷の総額を加算するのが重要だ。

めったに起きない出来事に対して、可能性を計算するのは非常に難しいのは明らかだ。同様の原理に関して:社会は、少ない可能性で重大な結果を及ぼす事故を受け入れる用意ができているだろうか? 計算の方法に関して:ときには最小限であるが、悲劇的になるかもしれない事故の全体像を推測すべきだろうか? 4つの事故(チェルノブイリが1つ、福島第一原発は3つの原子炉)と数えるべきか、ひとつとすべきか? 事故の可能性を目標にし、それに応じて原発の適正規模を決める立案者がよい計算をするとみなすべきだろうか?

粗野なアプローチではあるが、とりあえず推測を進めよう。フランスと比較可能な世界の原発施設は、運転中の14000年・原子炉で、重大な事故(チェルノブイリと福島第一)は2回起きた。30年後を推測してみよう。そのときフランスの原発施設は1800年・原子炉が稼動している。チェルノブイリのケースを度外視して、今後30年間でフランスの原発施設で10%の事故の可能性があるだろう(1800/14000の比で端数切捨て)。

損失額については、事故1回につき1兆ユーロ程度だろう。そこで、1000億ユーロの共同資金を積み立てる必要がある。30年で、電力生産量は約12000テラワット。現実的かどうかは抜きにして、1メガワットにつき0.8ユーロほどのリスクカバー率の保険料にしなければならない。合計では、年間3~4億ユーロになる。

もちろん、ここで出た数字は例でしかない。会計検査院の監査は、透明性のある方法で、多様な分野の専門家の意見を聞いて、より正確にわかるようにしてくれなければならない。この件については、科学的真実は存在しないであろうが、推測といくつかのデータの有効性を認めなければならない。

実行するにあたり、制度上の問題が存在する。今日、原発施設に使われる税金は、約4億ユーロだ。我々の例では、共同資金を運営企業の会計に残らないようにするためには、年間7億ユーロを使わなければならない。建造物1つにつき、事故が起きなければ多すぎる金額で、重大な事故の場合は十分とはいえない。それは国家の予算になるだろう。

したがって、共同資金にたくわえを別にとっておくべきか、一般予算に残すべきか? たぶん、共同資金の予算に残すほうが論理的だろう。そこで2つの問いが出てくる。運営企業が民間であっても利益はふさわしくなく、原発の潜在的な損失は必然的に社会化されていると言うことではないだろうか? したがって、原発は、公共組織に属しているに過ぎないと理解できないだろうか?

 

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