『日刊ベリタ』 2007年2月26日に掲載された記事です。
台湾で1947年2月28日に起きた「2・28事件」からことしで60年。この事件では、国民党政権に対して台湾人が抗議行動を起こしたことをきっかけに、政府が弾圧に乗り出し、2万人前後の台湾人が犠牲になった。2・28事件は台湾で長い間封印されていたが、1980年代後半の台湾民主化以降、真相の究明が進んでいる。こうした事情を、多くの日本人に知ってもらおうと、札幌の大学に留学中の蔡亭朱(さい・ていしゅ)さん=台湾の東海大学・日本語学科に在学中=が、さっぽろ自由学校「遊」で学習会を開いた。会が開催されたのは1月23日。
太平洋戦争後、台湾の国民党政権の下で、40年もの間、2・28事件は闇に葬られていた。学校でも一切この事件は教えられなかった。台湾政府は1995年に李登輝総統が公式に謝罪した。台北228記念館の設立のほか、教科書の抜本改定など、情報公開も進んでいる。
しかし、台湾人の関心は高いとはいえない。特に、若者にとっては忘れられた過去になりつつある。
1983年生まれの蔡さんは、「私たちの時代は高校で2・28事件について学びました。ただ、歴史教科書の記載はほんの数行で、詳細については触れませんでした」と語る。
蔡さんがこの事件を調べだしたのは、祖父母(いずれも1924年生まれ)から事件の真相を聞いたのがきっかけだ。「祖父母は、植民地時代や粛清の記憶を語ってくれました。日本では、台湾で起きたこの事件についてほとんど伝えられていないようです」
3月の帰国を前に、蔡さんは祖父母の話しや自ら収集した情報を元に、2・28事件について概要を解説した。
1945年8月15日、台湾は日本の植民支配から解放され、蒋介石を中心とする国民党軍に統治されることになる。日本の植民地時代に不当な扱いで苦しめられていた台湾人は、中国本土から上陸する「同胞」国民党兵士を心待ちにしていた。
しかし、夢は早々に破られたという。上陸した兵を見た台湾人は、靴も履かず、毛布を背負ったみすぼらしい姿に失望したそうだ。台湾人が連想する軍人とは、軍服にサーベルという正装した日本兵で、そのイメージと大きく異なっていたからである。
当時のエピソードとして、中国兵は水道の蛇口を知らず、蛇口さえあれば水が出ると思い込んでそれを持ち去ったという話がある。街灯も目新しく、登って調べる人もいたという。中国本土は、共産党や日本、ソ連との戦いで荒廃しており、台湾に比べて近代化が遅れていたのだ。
それにもかかわらず、国民党兵士は、台湾人を「同胞」と見るどころか蔑視が著しかった。清朝時代以降に住み着いた台湾人を「本省人」と称して、自分たち「外省人」と明らかに区別したのである。
期待をさらに裏切ったのは、国民党政権の腐敗だった。蒋介石が本土で交戦中だったため、陳儀(ちんぎ)が行政長官に任命されたのだが、官吏の汚職がはびこり、経済および治安が悪化し、台湾は深刻な政情不安に陥った。
こうした中、差別を受けていた本省人は生活に困り、「外省人」への敵対心を強めていく。積もり積もった鬱憤が、2・28事件を引き起こすことになる。
事の発端は、1947年2月27日に行われた密輸煙草の取り締まりだった。台北の商店街で密輸煙草を販売していた林紅邁という女性が摘発され、密輸煙草だけでなく、所持金も押収された。彼女は二人の子供を持つ40歳の寡婦で、取締員に泣いて懇願するが、反対に銃で頭を殴られたのである。
これを目撃していた民衆は取締員の態度に憤慨し、彼らを追いかけた。逃げる取締員のうちのひとりが威嚇発砲し、その流れ弾に当たった若い男性は死亡。警察局と憲兵隊に取締員の引渡しを拒否されたことで、本省人の不満が爆発する。
翌2月28日の朝、群衆は専売局に抗議し、その後、意見書を提出しようと長官公署を訪れるが、憲兵に乱射されて少なくとも10人が死傷する。
この発砲事件で台北市中は騒然となり、その日のうちに若者が台湾放送局を占拠してラジオで全島に呼びかけたため、3月1日には対抗運動が全土に波及した。
国民党政権は事態を収拾しようと、中国から応援部隊を招集。「静郷」と呼ばれる軍事制圧が敢行され、中国から派遣された兵士は無差別に本省人を殺戮した。
1949年、蒋介石が台湾に上陸した年に、台湾では、「白色テロ」(白色恐怖)として知られる戒厳令が施行された。戒厳令は、1986年に民主進歩党が結成されて廃止を唱えるまで、40年近く続き、2・28事件の真相が長年封印された。
2・28事件は日本の歴史と無縁ではない。蔡さんは沖縄タイムズ(2007年1月7日朝刊)の記事を紹介し、それによると、沖縄県出身者など関係者30人以上が犠牲になったという。事件から60年の節目の今年、「台湾228事件沖縄調査委員会」を結成し、本格的な調査に乗り出すという。