移民取り巻く状況悪化で変わったフランス社会とW杯風景

『日刊ベリタ』2006年7月12日に掲載された記事です。

フランスにとってのサッカーW杯は、ジダンのレッドカード退場という意外な幕切れで終わった。6月27日のスペイン戦以来、異常ともいえる盛り上がりだったこともあり、ここ数日のフランスは、腑に落ちない結末の話題で持ちきりである。巷でささやかれている差別発言が頭突きの原因だとしたら、今後も論議を呼びそうだ。というのも、1998年のフランス大会同様、今回も、フランス代表の存在は移民問題と密接に結びついていたからだ。

フランス代表の今大会の活躍は、98年のフランス大会に非常によく似ている。前評判はすこぶる悪いが、勝ち進むにつれて、国民が一丸となって応援する。その経緯はほぼ同じだ。
W杯ドイツ大会の予選リーグでは、国民の多くはフランス代表を批判的に見ていた。「フランスは古い国、政治家とフランス代表は年寄りばかり」と、フランス人は不満をあらわにし、チームワークの悪さをも危惧していた。

フランスを覆う陰鬱な空気はここ数ヶ月ではじまったわけではないが、昨年秋の暴動事件や、今年に入ってからの若者のデモといった出来事で重苦しさが増幅していた。それを裏付けるかのように、フランス代表は不甲斐ない戦いを重ね、国民の士気は下がるばかりだった。

なんとか決勝トーナメントに駒を進めたものの、ほとんどの国民はスペイン優勢と見ており、この日が最後の試合だと覚悟していたほどだ。ところが、フランス代表は見事に快勝したのである。勝利の歓喜はすぐに国民に伝播し、熱狂の渦へと巻き込んだ。

次のブラジルを負かしたことで、暗雲は払拭され、フランス国民は自信を取り戻した。この勝利により、「年寄りばかりのフランス代表でも成功できる」と国民の意識は変った。我々国民もまた、何かにうち勝つことができるに違いない。誰もがそう信じ始めたように見えた。

アフリカ出身者らが最も熱狂

もちろん、フランス代表の快進撃に最も熱狂したのは、これまで辛酸をなめていた若者、つまり北アフリカやフランス領海外県・海外領土出身の若者たちである。

ポルトガルとの準決勝が行われた7月5日、パリ市南部にあるシャルレティ・スタジアムで試合を観戦した。この日、フランス各地で大型画面が設置され、パリの2ヶ所のスタジアムでも、 市の主催で入場無料のイベントが開催された。

開場の19時になると、選手の背番号付きユニホームを着たり、 フランス国旗やジダンの故国であるアルジェリアの国旗を肩にかけた人々が、ぞくぞくと入場していく。シャルレティ・スタジアムに集まったサポーターは、フランス代表がそうであるように、さまざまな肌の色が混ざり合っていた。

あっという間にスタンドは満席となり、ピッチも人であふれた(翌日の情報によると、入場者数は2万6000人以上)。まるでこのスタジアムで試合が行われるかのような熱気だ。

試合が始まる1時間も前から、サポーターは大声をはり上げ、 「アレ・レ・ブルー(行け!)フランス代表 」と叫び、耳を劈(つんざ)く太鼓やラッパの音が鳴り響いていた。あちらこちらで花火が上がり、爆竹が飛び交った。

スタジアムには暴動の緊張も

サッカースタジアムでありながら、そこは娯楽の場というより、一種の緊張が漂っていた。いつ暴動が始まってもおかしくないほど、危険に満ちていたのだ。入口にはかなりの数の警官が警戒に当たり、市が派遣した50人以上の警備員が構内で待機し、ものものしい雰囲気だった。

事実、いたるところで小競り合いが起こっていた。

100人ほどのポルトガルサポーターに向かい、フランスサポーターはヤジを飛ばす。

近くのスタンド席に陣取ったバンリュー(郊外)出身の移民の若者たちのなかには、ひっきりなしにハシシを吸っている者がいた。

前半でジダンがPKを決めると、いっせいに発炎筒がたかれ、スタジアム内が真っ赤に染まる。観衆に向けて花火を放ち、警備員に取り押さえられる若者もいた。

ピッチ上で少年グループが殴り合いのケンカをはじめ、一同騒然となったときもあった。

さらに、試合終了後に地下鉄駅へ向かうと、入口で機動隊員に進行を制止され、群集が殺到してもみくちゃになっていた。この状態にイラついた若者は、怒鳴ってガラス瓶を投げた。

地下鉄の車内では、白人の少年が黒人グループに国旗を奪われて泣きべそをかき、また、禁煙の車両でタバコを吸う若者もいた。

翌日の新聞で知ったのだが、スタジアムの最寄り駅近くで刃物による傷害事件が起き、18歳の少年がケガをしたとのことだった。その夜、スタジアムでは15件ほどの乱闘があり、発炎筒をたいた10人が検挙され、酔っぱらって暴れた人もいたという。

勝利の日にかこつけた鬱憤晴らしも

それだけではない。シャンゼリゼ通りでは朝4時まで騒ぎが続き、若者グループが催涙ガスを撒き散らすなどして189人が警察の尋問を受けたそうだ。

オペラ駅では、地下鉄の車両の上に乗ろうとした18歳の少年が落下して死亡。18区の大通りでバイクの運転手がコントロールを失い、歩行者5人にケガを負わせ、本人は死亡した。さらに、パリ郊外で20歳の女性が自動車事故で死亡し、リヨンでは橋から飛び降りた若者が川で溺れ死んだ。

フランス各地で同様の騒動が起こり、自動車やゴミ箱が燃える事件も報告された。まるで “暴動”そのものである。フランス代表の勝利にかこつけて、若者たちは鬱憤を 晴らそうとしているかのようにも思えた。

一緒にスタジアムに行ったフランス女性は、「98年にここで決勝戦を観たときはこうではなかった。8年でフランスは大きく変わってしまった。昨年秋の暴動は終わったわけではない」とため息をついた。

2006年のこの興奮は、前々回大会と表面的にはほぼ同じといっていいだろう。しかし、この8年で、フランスが荒み、疲弊してしまったのは明らかだ。若者たちのストレスは限界に達している。

ブラジルを破った頃から、メディアは盛んにフランス代表と移民たちとの関係を分析し、「98年との違い」について語りはじめた。

98年にフランス代表が優勝したとき、人々は「ブラック(黒人)、ブラン(白人)、ブール(北アフリカ出身者)」と肌の色の違いを超えたフランスをたたえた。ところが、それはサッカーだけの話しであり、日常生活の差別は撤廃したわけではない。政治は何も変わらず、国民の期待は見事に裏切られた。

人種差別は改善されていないどころか、移民を取り巻く環境はますます悪化している。

フランスメディアでは「フランス大会後に失望した国民は2006年に同じ夢をみようとはしていない」といった論調が多かった。それでは、フランス社会の進むべき道はどこなのか。

今大会でフランス代表への支持が高まったのは、多国籍によって構成されたチームだからではなく、チームの結束力が見て取れたからだといわれている。

新しいスローガンとともに

「“ブラック・ブラン・ブール”という民族同化は幻想でしかない。これからフランスが目指すのは“人々が団結した強い国家”だ」という声があちらこちらで聞かれる。

今回の決勝のために作られた新しいスローガンは「共に生き、共に死ぬ」であり、“ブラック・ブラン・ブール”に取って代わった。

そうした動きの主導者は、政治家ではなく、国民のようだ。過酷な移民対策に対し、フランス社会は「ノン」をつきつけている。フランス国民の多くが差別される境遇に同情し、こうした若者こそが犠牲者だと理解しているのだ。

不遇な若者を擁護する行為は、シャルレティ・スタジアムでも目撃することができた。スタジアムでのいくつかの愚行を前述したが、それらには次のような続きがある。

ハシシを吸っていた少年に、子供連れの男性は「ドラッグを吸うなら、別のところへ行け」と叱責した。その口調は厳しかったが、冷酷ではなかった。少年は口答えをしたが、周りの大人や仲間になだめられ、彼は席を移った。

黒人グループに国旗を奪われたのを知り、同じ車両に乗っていた黒人男性は、「あいつらに取られたのか?」と少年に声をかけ、自ら国旗を取り戻そうと試みた。

車内で喫煙していた若者には、中年女性が毅然と注意した。若者は言い訳をしてタバコを吸い続けていたが、「規則は尊重しなければならない」と女性は説得をやめない。若者はキレることなく女性と根気強く議論し、最後には彼女と笑顔で握手をかわした。

「共に生き、共に死ぬ」

政治がやらなくても、国民が行動することで、成功を獲得できる。フランス代表の健闘は、 “可能性”を示したともいえる。準優勝で終わったとしても、十分に価値があった。フランス国民はそう感じているのではないか。

 

フランスのイスラム文化メディア『Salamnews』
フランスに住むイスラム教徒の移民を主なターゲットにしたフリーペーパー。2008年9月創刊の月刊誌で、15万部発行。食料品店や劇場などで配布している。人口の10%を占めているイスラム教徒の現状やひとりひとりの声を伝える初めてのメディア。

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