北海道から韓国へ朝鮮人労働者の115体の遺骨返還の旅

『The Japan Times』2015年11月18日に掲載された記事です。

Retracing forced laborers' journey, Koreans finally bring their loved ones home from Hokkaido
A decade-long effort by civic groups in Japan and South Korea culminates in a 3,500-km journey to bring back the remains of wartime forced laborers.

9月18日、1930~40年代に北海道で強制労働させられた朝鮮人115体の遺骨が、世界第二次大戦後70年を経て、ついに韓国に返還された。日本国内のメディアはこの出来事をほとんど報道しなかった。ちょうどそのころ日本では、戦後日本が堅持してきた武力行使の制限を緩和する新安保法案の行方に関心が集まっていた。この新安保法は皮肉なことに、遺骨を乗せた船が釜山に到着した朝の数時間前に成立した。

遺骨返還は、韓国と日本の市民団体による長年の活動の集大成ともいえ、「強制労働犠牲者追悼・遺骨奉還委員会」は、強制労働者が当時連れてこられた3500㎞の道程を10日間かけて逆にたどる旅を計画した。戦時中の遺骨がこれほど大規模に北海道から返還されるのははじめてである。

遺骨返還へ向けての第一歩となったのは、2004年12月に行われた、韓国の廬武鉉大統領(当時)と日本の小泉純一郎首相(当時)の日韓首脳会議だった。しかしその後、領土問題や歴史問題で日韓関係が悪化し、遺骨返還、未払いの賃金および賠償金などの戦時中の強制労働問題がすべて棚上げになってしまった。こうした状況のなか、日本からの正式な謝罪を待つべきか、遺骨をできるだけ早い祖国への返還か、韓国の市民団体はジレンマに陥っていた。

「大切な人の遺骨が返還されるのを待ち望んでいるご家族は高齢化している。それを考えると、これ以上待つことはできなかった。返還までに70年もかかってしまったことを申し訳なく思う。この遺骨返還を、東アジアの人々の和解のきっかけにしたい」と、当委員会代表のひとり、殿平善彦氏は言う。

67万人以上の朝鮮人が、日本の戦争に協力させられ、労働者として強制的に連行された。日本に来た朝鮮人労働者の20%にあたる約145,000人が、北海道の炭鉱や建設現場へと送られた。

死亡者の正確な数はわからないが、朝鮮人強制連行真相調査団が収集した名簿には、北海道で働き、死亡した2,292人の名前が記載されている。

強制労働者の遺骨の何体かは、雇用されていた企業から北海道内の寺院に預けられ、最近までそこに安置されたままだった。その他多くの犠牲者は、火葬されずに土に埋められ、墓石などの目印もない場所でそのまま放置されている。40年もの間、専門家や歴史学者、学生を含む、韓国と日本の市民が強制労働犠牲者の遺骨を発掘し、識別する作業が行われてきた。9月に返還された115体のうちの38体は、こうした発掘作業で見つかり、掘りだされた遺骨である。

この38体のうち34体の遺骨は、北海道の北端に位置する猿払村浅茅野で、2005年にはじまった発掘の際に見つかった。長きにわたって凍てつく地面の下に放置されつづけてきた遺骨は、浅茅野旧日本陸軍飛行場建設工事のために働き、そこで亡くなった朝鮮人だとみられている。

幌加内町朱鞠内では、1997年に日韓両国の学者、宗教団体、学生らが参加する発掘がはじまり、4体以上の遺骨が発見された。朝鮮人労働者は1938~1943年に雨竜ダムの建設現場で働いていた。

美唄市の常光寺に安置されていた6体の遺骨は、旧三菱美唄炭鉱(現・三菱マテリアル)で働いていた朝鮮人の遺骨である。

韓国に返還される遺骨の大多数にのぼる71体は、本願寺札幌別院が保管していた遺体だ。戦中もしくは戦後に10以上の企業が、朝鮮人、中国人、日本人労働者101人の遺骨をこの寺に預けた。80年代と90年代に遺骨は家族に知らされることなく合葬され、もはや識別できなくなっている。寺院で見つかった資料によると、101人の労働者のうち71人が朝鮮人だった。そこで、合葬された遺骨のうち71人分の遺骨を返還することに決めた。

9月11日、遺骨奉還委員会および韓国の遺族関係者の約30人が、北海道北部の浜頓別にある天祐寺に集まり、浅茅野で発掘された34体の遺骨を受け取った。

その後、一行は北海道を横断して、道内3か所で残りの遺骨を受け取り、東京へ向けて出港した。

9月14日に東京を発ち、京都、広島、下関で追悼式を行った。それから遺骨は、過去に朝鮮人が日本へ連行されたのと同じルートである、釜山と下関を結ぶ関釜フェリーで運ばれた。

9月18日朝8時ごろ、白い布で包まれた18の木棺が、釜山港国際旅客ターミナルに到着した。

港近くのスミル公園で鎮魂祭を行い、遺骨はソウルへ運ばれ、聖公会ソウル主教座聖堂に仮安置された。

9月19日夕方にソウル市庁前の広場で行われた合同葬儀には、朴元淳ソウル市長をはじめ、遺族、市民団体のメンバー、一般市民が参列した。115人のソウル市民が遺骨を納めた骨壺を運んだ。たまたま通りがかった人たちのなかにも、葬儀に尊敬の念を抱き、立ち止まって式を見守る人がいた。

翌朝、遺骨は京畿道の坡州(パジュ)市にあるソウル市立墓地に納骨された。遺骨を納めるモニュメントのデザインは、ソウル市の日本大使館前に建つ「慰安婦」少女像を制作したキム・ソギョンとキム・ウンスン夫妻である。

遺族たちは遺骨が返還されて喜んではいるが、一方で、矛盾した気持ちも抱いている。

「私はもちろんのこと、札幌別院に保管されていた遺骨の遺族は、遺骨が合葬されたのが残念でならない」と遺族は心境をもらす。遺骨はもともと一体ずつ別々の木箱に納められていたが、1984年と1997年に一緒にしてしまったため、誰の遺骨なのか区別できなくなった。

「寺に遺骨をあずけた企業は、まず遺族を探すべきだった」とキム・ギョンス(金敬洙)氏(65歳)は言う。彼の叔父は、1942年に日本兵に連行され、北海道へ行かされた。

キム氏は、2004年に叔父の遺骨が札幌別院で見つかったのを知り、北海道を訪れた。それ以降ずっと、他の犠牲者の家族同様、日本政府と企業が公式な謝罪とともに遺骨を返還すべきだと主張し、遺骨を持ち帰るのを拒否しつづけた。

今回の遺骨返還事業への寄付に賛同したのは、岩田地崎建設(当時の地崎組)、菅原建設(当時の菅原組)、菱中建設(中村組)の3企業だけだった。ユネスコが「明治日本の産業革命遺産」23施設のを世界遺産に登録した直後の7月に、米軍捕虜の強制労働者に謝罪した三菱マテリアルは、三菱美唄炭鉱で働き死亡した朝鮮人の甥が叔父の遺骨を引き取りに訪れたにもかかわらず、今回の遺骨返還への寄付を拒否した。

10月11日、ユネスコの世界遺産委員会のホームページ上で、7月にドイツのボンで開催された会議での佐藤地(さとうくに)日本ユネスコ大使の発言が公開された。「産業革命遺産のなかには、1940年代に朝鮮人など多くの人が意に反して連れてこられ、厳しい環境下で強制労働させられた」と、ユネスコが登録した産業革命遺産の23施設に言及し、佐藤大使はこう述べた。そして、「日本は、この犠牲者を忘れないようにするために、情報センターの設置など適切な措置をとる用意がある」とつけ加えた。(222ページ
この発言を受け、日本政府は佐藤ユネスコ大使の言葉を真剣にはとりあわず、「労働を強いた」のであり、「強制労働」の意味ではないと即座に断言した。

報道によると、韓国政府は、日本植民地時代の強制労働被害記録をユネスコの世界記憶遺産に登録する予定だという。ユネスコへの次回提出の締め切りは来年3月31日で、2017年6月か7月に最終決定がなされる。<訳注:結局、申請はされなかった>

「強制労働の犠牲者は朝鮮人だけではない」と、遺骨奉還委員会の韓国側市民団体「「平和の踏み石」メンバーのチョン・ビョンホ(鄭炳浩)代表は遺骨返還の旅のなかで指摘した。「朱鞠内の発掘や他の活動を通し、多くの日本人もまた犠牲になっているのを知った。これは強制労働の構造的問題だ」

戦時中の朝鮮人動員よりも前の1850年から類似の大規模な強制労働が行われており、日本が植民地支配力を強め、近代化および工業化を進展させていった明治時代(1868~1912)に、強制労働は勢いを増した。

特に北海道では、極度の労働力不足に陥り、“タコ部屋”(“強制収容所”のような意味)として知られる奴隷制ともいえる労働システムが、炭鉱、鉄道、その他の建設工事で広く用いられてきた。労働者が殴られたり、労働で借金を返済したりする、囚人のような、もしくはそれより酷い扱いを受ける残忍なタコ部屋構造は、請負業者と下請の不明瞭で複雑な関係がからみあっている。斡旋業者は労働者を募集し、借金をさせてそれを返済するという契約に署名させた。タコ部屋での労働は、食事や宿泊料を賃金から差し引かれて搾取され、1日12時間以上働かされることもしばしばだった。

1937年の日中戦争勃発後、北海道の鉱山の石炭や金属の需要が高まった。北海道がまとめた朝鮮人強制労働に関する1999年報告書によると、1938年までに、北海道の石炭生産量は、日本全体の28%を占めていたとある。原料の急激な需要増加に応え、日本中の鉱山で働く労働者の数が、1938年には1931年の7倍に増えた。軍やその他の施設建設もまた、急速に増加した。

こうした事態は深刻な労働者不足を招き、産業界からの強い圧力もあって、タコ部屋構造へ送りこむための朝鮮人の組織的な強制募集が本格的にはじまった。

タコ部屋システムは、1946年の連合国軍占領下で廃止された。しかし、外国人研修生や非正規労働者、福島第一原発の除染作業といった、“危険で汚く、きつい”3Kと呼ばれる仕事は、何重もの下請けで構造の労働になっている。現在の雇用状況を批判的な人たちは、こうした労働環境はタコ部屋構造の名残だとみなし、日本にまだそれが存在していることを問題視している。

「強制労働は、過去の問題ではなく、現在の問題として見る必要がある。日本と韓国、日本と中国だけの問題ではなく、権力者と不利な立場の労働者の問題である。多くの日本人もまた犠牲になっている」と、強制労働問題の専門家である東京大学の外村大教授は言う。「戦時中の近代化の歴史を顧みることはまた、経済システムが今日の世界にもたらしている状況などの問題を明らかにすることでもある」

 

元徴用工問題の解決策を探って(中日・東京新聞に掲載)
日韓関係に横たわる元徴用工問題。元徴用工への賠償を命じる判決が焦点になり、その実態、遺骨や未払い賃金の返還といった現状はほとんど取り上げられない。日韓関係の改善には、戦時中の労働者不足を補うために動員された徴用工についての理解が欠かせない。

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