DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争6

フランスの大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏の性的暴行事件(DSK事件)をめぐり、アメリカとフランスで交わされたフェミニズム論争の6回目です。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズム論争1
大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏のセクハラDSK事件は、フランスでの#MeToo運動のはじまりともいわれている。この事件をめぐり、アメリカとフランス、そしてフランス国内でフェミニズム論争が起こり、大手新聞で激しい応戦が繰り広げられた。

最終回の今回は、ネット新聞メディア・パルトで2011年7月2日付に発表された、哲学者エルザ・ドルラン氏のインタビュー「誘惑の芸術かフェミニストの闘いか」を紹介します。

Elsa Dorlin: l'art de séduire ou les combats féministes?
L’arrestation de l’ancien directeur du FMI a ravivé les voix féministes, mais elle a aussi réveillé des querelles entre féministes, opposant un prétendu «fémini...

この記事ではまず、ジャーナリストのジョゼフ・コンファヴロー氏がこれまでの経緯をわかりやすくまとめています。

国際通貨基金(IMF)の前専務理事ドミニク・ストロスカーン氏の逮捕は、沈滞していたフランス国内のフェミニズムの声を再び活気づかせました。それだけでなく、過去の争論を再炎上させ、新しい対立を引き起こしたのです。

メディアが意見交換の場となり、特にリベラシオン紙では、「フランス流」フェミニズムと「アメリカ流」フェミニズムが真っ向からの論戦が展開されました。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズム論争2
大物政治家ストロスカーン氏の性的暴行事件は、フランスのフェミズムを活発化させた。法社会学者イレーヌ・テリー氏の寄稿の抄訳。フランスは性やジェンダー問題で他国より遅れているとみられているが、性犯罪を重大な提起として一とらえなければならない、と。

「被害者」フェミニズムとそうではないフェミニズム、新保守派フェミニズムと解放派フェミニズム、差異主義と普遍主義…といった見解の相違が明らかになり、激しい論戦が繰り広げられました。

フランスの社会学者イレーヌ・テリー氏とアメリカの歴史学者ジョーン・スコット氏の「女性性」の舌戦で具象化されたこの闘争は、誘惑の曖昧な問題に根ざしているといえます。モナ・オズーフ氏やクロード・アビブ氏をはじめ、一部の歴史家や哲学者たちは、誘惑する芸術はフランス文化の構成要素であり、セクハラといったものといっしょに排除すべきではないと考えています。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争3
フランスの大物政治家ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐるフェミニズム論争の3回目。フランスの法社会学者イレーヌ・テリー氏の「フランス流フェミニズム」にアメリカの歴史学者ジョーン・スコット氏がかみつき、さらに3人のフランス知識人が議論に参戦。

スコット氏やディディエ・エリボン氏はそれに対し、男性と女性の関係の非対称、そして愛の同意の形の暗黙の前提は、政治および古い男女の秩序の永続でしかないとみて、異議を唱えました。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争4
フランスの大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐり、アメリカとフランスで交わされたフェミニズム論争の4回目です。「フランス流フェミニズム」を提唱する仏の4人の知識人と米国の歴史学者との新聞上で激しい議論を展開します。

一方、エリック・ファッサン氏は、「フェミニストの誘惑」を提案しています。「権力の性的問題を除外するという幻想」をあきらめるのは不可能であると確認しつつ、「社会の役割分担は、本来想定されている男女の差異を示しているだけかのように、男性のアプローチに応える女性的な羞恥心」とは別の非対称を想像しながら、誘惑関係を「乱す」よう呼びかけます。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争5
フランスの大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐり、アメリカとフランスで交わされたフェミニズム論争の5回目です。 ことの発端、1回目はこちらをご覧ください。 前回は、「フランス流フェミニズム」を弁護する...

哲学者エルザ・ドルランは、国の文化、アメリカとの違いだけにとどまらない対立関係について、次のように説明します。

アメリカとフランスは社会運動の歴史、思考の歴史の観点から、明らかに、異なる社会的および地政学的な状況、特殊な活動家の議題として知的伝統が存在しますが、敵対関係でそれらを考えようとか、国の定義にそれらを包摂するのは危険です。こうした表現は、ナイーヴな比較主義や、幼稚もしくはエリートの反アメリカ主義に関連する一連の激しい非難に火を注ぐ国粋主義の潮流の兆候になるからです。

フランスとアメリカのフェミニズムの流れや運動は類似点があったり異なったりそれぞれですが、お互い磨きあいながら発展してきた経緯があります。

「アメリカのフェミニズム」と「フランスのフェミニズム」の対比を提起したのは、アメリカの歴史学者スコット氏でした。

また、1995年刊行の「女性の言葉:フランスの特異に関するエッセイ」で、著者のモナ・オズーフ氏は、ソフトな男女の交流にふさわしい節度といわれる「フランスのフェミニズム」の対極にある、邪悪で過激、権利要求を核とする「アングロサクソン」のフェミニズムを攻撃しています。

フランス流の男女平等のこうした提唱は、「歴史的事実」のように次第に認められていきました。ギャラントリ(女性に対する丁寧さ)と誘惑の平和なゲームの伝統的恩恵をほめそやし、「男女の補完性」(「男女の差異」の保守的概念の承認に必要な補完性)の思考を保護する一方で、フェミニスト運動や研究に逆行し、もしくは、ジェンダーにおいて、同時代の人々や論文を学術的に無視しただけでなく、象徴的に悪用されていったのです。

「アメリカのフェミニズム」や「フランスのフェミニズム」は、修辞学的対立の意味でしかなく、一部のエリート知識人によって広められた反フェミニスト文化を保っています。

1990年代、女性の権利と平等に関する議論が、評論やフランスの新聞の扇情的な議論の場にあふれていました。矛盾や滑稽さなどを恐れずに「フランス・フェミニズム」の普遍主義を自負するという文脈において、セクハラ、共同体主義(当時、ゲイやレズビアンの「性的共同体主義」が問題だった)、アメリカのピューリタン主義、男女間の戦い、少数民族への抑圧…が存在していました。

「セクシュアル・ハラスメント」の用語が登場するのにも数年かかりました。複数の人は、フランス人が「アメリカ流の」フェミニズムを必要としないと納得させられるがままにされていたのです。

私は、哲学者ディディエ・エリボン氏の6月22日付リベラシオン紙の「フランス流フェミニズムか新保守主義か?」における論証に賛同します。彼はここで、フェミニズムに関する現在の論争の中心人物たちがすでに敵対しあっている出来事、例えば、パリテ法、PACS(連帯市民協約)、ヴェール問題についての議論が起きているときの立場を証言しながら、1980年代から90年代に作り上げた、フランス流フェミニズムの言説と彼が名づけた動向「新保守主義者」の双方の利益と関係を明示しています。

ディディエ・エリボン氏は、ジョーン・スコット氏の6月9日付リベラシオン紙の記事の文脈に効果的に関連させて焦点を合わせています。スコット氏の意見は、DSK事件に関するイレーヌ・テリー氏への回答です。

スコット氏が皮肉と理性を込めて強調したのは、「DSK事件」の際に、政治的正しさと「男女間の戦い」というアメリカ文化と対照的な、「特殊性」の主張、フランス流のいわゆる男女の一時的妥協のぶり返しをフランス人が認めるたということです。それにつづき、イレーヌ・テリー氏、モナ・オズーフ氏、クロード・アビブ氏、フィリップ・レイノー氏の署名入りで、スコット氏に軽蔑的な回答をしました。

スコット氏は非常に根深い新保守主義者の思想の流れに反対する議論を再び活気づかせましたが、(その議論は)フェミニズムの正確な質問に関して、実際の大学の研究の視点も、戦闘的な場面の動員や闘いの視点も、ほとんど時代遅れでした。

スコット氏は、政治家や国粋主義者それどころか人種差別者の言説によって道具として利用されるままにされることを拒否しながらも、フランスだけでなくアメリカのフェミニストの大部分が、性暴力と、階級、人種、国、年齢などの横断性を暴くために海の向こうや戦争に結集するちょうどそのとき、敵に議論に場所を与えるよう申し出るという認識について過小評価しました。

男女不平等から解放された世界において、誘惑の考えは不適切なのでしょうか?

エリック・ファサン氏の記事での「民主的な誘惑を考えよう」の提案のように、民主的なフェミニストの本当の誘惑を確かに提案することはできます。性的な欲望と喜びのあらゆる関係において力というものがつねについてくるのなら、その力は循環し、偶然の出会い、遊び、恋愛関係などのパートナーと同一で割り切れる強度の力を効果的に行使できることを確証するというのが重要です。

しかし私は、この議論が要求するまさにその言葉をひとまとめに拒否するときでもあると思います。DSKは無実になるかもしれない、と私たちに知らせる議論ではなおさらです。誘惑者は最終的に、悪意のあるホテル従業員に誘惑された…という出発点に立ち戻ってしまいます。新聞やテレビで、ストロスカーン氏の無実、誘惑の免責を自慢し、「誘惑する女性」―恥知らずの性的誘惑者-の卑劣さについて復讐する討論が行われることを私は想像せずにいられません。

20年前から(そしてもっと長い間)、フランスの民主的な遺産として示されるフランスの代表的な異性愛者の「同意の」誘惑というレトリックは、ちゃんと見分けがつかず、表現のしようのない、通常の性差別(最も暴力的として隠された性差別)が生き続けるよう強制する、歴史的・論証的な制約でしかありません。

たとえば、シンプルな甘ったるい「マドモワゼル…(お嬢さん)」がうれしいと思えず、不快、屈辱的または抑圧的だと感じることとを、「いやなキス」「ヒステリック」「原理主義イスラム教徒」「アメリカのフェミニスト」との関係性をいっさい排除して、どう表現し、説明するでしょうか。

誘惑を非国有化したがったり、同様に誘惑を混乱させたりするのはをやめるときです。つまり、異性愛性差別、人種差別、教室の性的関係などによって特徴づけられた誘惑を減らすということです。スコット氏への回答でテリー氏は「奪われたキス」の消失を心配していましたが、我々が願う平等の社会では、その消失におびえる新自由主義、女たらし、国家主義者を安心させないよう拒否すべきです。

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