DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争5

フランスの大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐり、アメリカとフランスで交わされたフェミニズム論争の5回目です。

ことの発端、1回目はこちらをご覧ください。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズム論争1
大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏のセクハラDSK事件は、フランスでの#MeToo運動のはじまりともいわれている。この事件をめぐり、アメリカとフランス、そしてフランス国内でフェミニズム論争が起こり、大手新聞で激しい応戦が繰り広げられた。

前回は、「フランス流フェミニズム」を弁護するフランスの4人の知識人に対し、アメリカの歴史学者ジョーン・スコット氏が書いた返答と、フランスの作家・哲学者ディディエ・エリボン氏の寄稿を紹介しました。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争4
フランスの大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐり、アメリカとフランスで交わされたフェミニズム論争の4回目です。「フランス流フェミニズム」を提唱する仏の4人の知識人と米国の歴史学者との新聞上で激しい議論を展開します。

DSK事件が起きた2011年5月14日から1か月以上経ったころに発表された、フランスの伝統的文化といえる「誘惑」をどうとらえるか、それを論じた2つの寄稿をとりあげます。

最初は、6月29日付ルモンド紙に掲載された、パリ高等師範学校教授エリック・ファッサン氏の寄稿「DSK後:フェミニズムの誘惑のために」。

 

「国際通貨基金IMFの専務理事ドミニク・ストロスカーン氏の逮捕から1ヶ月、フランスは大きく変わった。昨日の規範は突然異常のようになる」

DSKの逮捕直後、哲学者ベルナール=アンリ・レヴィ氏や政治家ジャック・ラング氏、法律家ロベール・バダンテール氏らストロスカーン氏と親しかった権力者たちは仲間内の会話のように彼を弁護しました。ところが、そうしたありふれた風景が一変、たちまち彼らは許されない、時代遅れの男たちへと転落していったのです。

ファッサン氏は、「この事件の衝撃は新しい文化を生じさせ、過去を顧みて多くのことを自問させた」と述べています。「私生活の尊重は、男女の力関係の不公平さの言い訳に使われていなかったか?」「フランスの特例の名のもと、アメリカ・フェミニズムを拒否することで、単にフェミニズムの排除を促していなかったか?」「この社会は、バンリュー(郊外=移民が多く暮らす)で起きた性暴力をすぐに告発するのに、国民議会や大学でのセクハラには目をつぶっていないか?」

ジェンダー研究の世界的第一人者であるアメリカのジョーン・スコット氏に対抗して、フランスの社会学者イレーヌ・テリー氏が「普遍主義者」といったパラドックスを恐れずに要求した「フランス流フェミニズム」について、ファッサン氏は、「政治的妥当性の行き詰まりを否定し、男女平等の権利と誘惑の不均衡な喜び、同意の絶対的尊重とキスを奪われる甘い喜びを求め、1989年にフィリップ・レイノー氏がやりかけた議論を再び活気づかせている」と分析します。

「レイノー氏は、『フェミニズムの最先端をいき、やや意地の悪い、民主的な要求である』アメリカとの対比により、フランス人の文明、旧制度(アンシアン・レジーム)の礼儀作法の遺産を普及させる役割をほめたたえた。モナ・オズーフ氏は1995年に、著書『女の言葉 ― フランスの特殊性に関する考察』で、アメリカの『凶暴な』過激さに『フランス・フェミニズムの節度』を対抗させて、その思考を発展させなければならなかった」

ファッサン氏はさらに、スコット氏が「国民性は関係ないのではないか?」と皮肉で強調したことに触れ、”誘惑”の名のもと、フランス文化とは異質のイスラムを明示し、推定被害者がイスラム教徒だったため、テリー氏が国家の節度を忘れて「不名誉」と激怒したことを指摘しています。また、イスラムの問題については、クロード・アビブ氏が著書『フランスのギャラントリ』のなかで、「ヴェールの着用はギャラント(女性の気を引こうとする誘い)のゲームの中断を知らせる貞節のしるしである。決定的な不可能性でもある。和解の可能性はない」と書いていることも引用しました。

こうした状況はいまもあまり変わらず、フランスには「スコット氏に対抗して、我々の『文化遺産』の擁護にこだわらないであろうフェミニストは一握りしかいない」とみなしています。

性暴力が訴訟になる時代になっても、フランスの誘惑をほめたたえるのはなぜか? ファッサン氏は、オズーフ氏が言う「寛容で、同時に政界の男性のいたずらに対する甘い国」という弁明を挙げ、彼女がアメリカのラディカル・フェミニズムを分析した1995年の著書を「読み直すべきかなのか?」と問いかけます。オズーフ氏は、性暴力の概念はこの過激主義の象徴だとし、「我々はアメリカのこの概念に、暴力や脅迫の使用を今後いっさい伴わないが、誘惑のあらゆる試みは含むというかなり柔軟な定義を与えた」と記し、それが性暴力の危険を軽減すると主張していました。

両国の明らかな違いは、「アメリカのフェミニストが性暴力と騒ぎ立てている一方で、フランス人は誘惑のゲームを楽しんでいる」ところにあるのです。

ファッサン氏はさらに、「DSK事件によってナンパは重くなってしまったが、軽いギャラント(洗練された誘い)を復活させることができるのか?」「誘惑は民主主義とは相容れないのか?」と提起します。つまり、男性支配の旧体制の後にくる、「情欲をそそりながらもより民主的な、官能的なフェミニストを考える権利」の可能性を探ろうというわけです。

「フェミニストであっても、『誘惑の不均衡な喜び』を放棄する必要はなく、逆になぜ、不均衡が男性からのアプローチに対する女性的なはじらいと先験的に決定づけられるのか?」「どのような役を演じるかを事前には知らずに即興で行うゲームは、不確実性ゆえに魅力がある。固定的な取り決めでそれぞれの性に与えられた役を、不意打ちなどなしに再演するよう強いられたら、『襲われる甘い喜び』はまったく味気ないものになる」

最後に、「同意の絶対的尊重」については、「事前の会話が多ければ、絶え間ない恋愛の交渉を要求できる。性的な契約は、もはや事前の決定的な規則など存在せず、終わりのない勝負の賭けである」と結んでいます。

 

もうひとつは、2011年6月30日付リベラシオン紙に掲載された、ロール・ブルニ氏(社会学者)、ローズ=マリー・ラグラーヴ氏(社会学者)、セバスチャン・ルー氏(社会学者)、エレニ・ヴァリカ氏(政治家)の連名の寄稿「フランス流フェミニズム、そんなものは存在しない」です。

この記事は、DSK事件をめぐって論争になっている「フランス流フェミニズム」について、「フランス流フェミニズムが美しく素晴らしく存在していることを提示」する表現であり、「特異なフェミニストの形態が、さまざまな国において、社会的、政治的、宗教的文脈で現実化されることを誰も否定できないとしたら、フェミニストの闘争のための議論そしてしばしば指示対象の基盤が国から国への文化の伝達だったことを認めなければならない」とはじまります。

そのうえで、「アメリカ・フェミニズムが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールにはじまり、フランスの著述に多く影響されているのが事実だとしても、1970年代のフェミニズム、次のジェンダー研究は長い間、アメリカ、そして、より広く英語圏の理論家と活動家の恩恵で確立した」と、フランスもまたそれに影響を受けてきたことを認めています。

さらに、ジェンダー研究におけるジョーン・スコット氏の功績をたたえ、著書『Only paradoxes to offer: French feminists and the rights of man(パラドクスしか示せない: フランスのフェミニストと人権)』で、政治的平等に賛成する法律(パリテ法)の議論の際に、仕事にすでに精通していることを可視化し、共和主義に関する批判的視点を示したのは、この歴史学者のおかげだと評価します。

それゆえ、「6月17日の反論でフランスの知識たちが、プリンストン高等研究所の有名な教授であるスコット氏に『読み方を知らない』『誤った解釈をした』と疑ったことに唖然した」と書き、加えて、「スコット氏が『間違った解釈をした場合でも、尊大な調子で正当化するイラストを強調し、横柄も蔑む口調で論争するのは正しいくはない』と批判しました。

ここから、問題の核心である「誘惑と同意の場所と役割」についての意見が論じられます。

「ジェンダーが否定されるのであれば、スコット氏の議論と同時に、その根源となる権力を認めないほうが良い。また、誘惑することは男女の調和的交際のカギとなり、誘惑することは忘れることであり、自分の真の領域に他者を招き入れるのに成功することである」と説明。

「誘惑関係を始めた二人の主役は、不平等から解放され、力関係から自由になった、非社会化された個人ではない。二人の役者を同等で平等にするのは、二人の精神に溶け込んだ不平等を消去する魔法の仕方で誘惑を考えることである」とつづけます。

そして、スコット氏が、若い娘がしきりに誘惑され、しばしば侮辱されたり、虐待されたりするフランス文学を引き合いに出したことから、「社会関係を複雑に阻止する支配-従属の関係を追放しなければならない」と主張しています。

「男女の差異に関する研究のために、ジェンダー研究を排除する」とも述べ、「権力を失った男性支配に取って代わるのは、誘惑がキーワードとなる風習の平和な文明」だと断言します。つまり、誘惑といえば、「『男女』の和解の中心のように示され」たり、「DV、賃金・年金の格差、女性の失業などの不平等が大多数のフランス人の日常生活にセットとなっている現在において政治的な返答のように現れ」たり、それだけでなく、「フェミニズムが国際的な新しい方法を構築しているときに、隷属的な誘惑が『フランスのフェミニズム』の基礎になっている」ことが奇妙だと否定します。

さらに、「『特殊性』の幻想のなかに逃げ込む代わりに、あらゆる形のフェミニズムと対話しなければならない」と提案し、「フランスのすべてのフェミニズムの代表になりたいという野心を持たないことを条件に、この『フランスのフェミニズム』もそのなかに含まれる」とつけ加えます。

最後に、「フランス流フェミニズム」を提唱した4人の著述家について、「このさまざまな世代のフェミニストたちが示した懸念は理に適っている」として、次のような疑問を投げかけました。「提案している再国有化は、むしろ保守派の強化、もしくは、現実のフェミニストの混沌に新たなオプションを構築することだ。1970年代、MLF(女性解放運動)の「F」は、フランスではなく、女性を意味していた。フランス流フェミニズムを国民性の遺産に本当に登録したいのだろうか?」

 

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