DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズム論争2

フランスの大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏がニューヨークで逮捕され性的暴行事件は、フランスに大きな衝撃を与えました。

ところが、家父長制が長くつづいたフランスでは、権力者の情事には目をつぶるのが通例ともいえ、アメリカのフェミニストたちは、そんな甘いフランスの態度に怒り心頭。

大西洋をはさんで、フェミニズム論争が繰り広げられます。

前回の投稿はこちらです。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズム論争1
大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏のセクハラDSK事件は、フランスでの#MeToo運動のはじまりともいわれている。この事件をめぐり、アメリカとフランス、そしてフランス国内でフェミニズム論争が起こり、大手新聞で激しい応戦が繰り広げられた。

ニューヨーク・タイムズ紙の電子版には討論欄が開設され、DSK事件をめぐるフランスの対応に抗議の投稿が寄せられます。

ストロスカーン氏のセクハラ逮捕の1週間後の2011年5月23日、ルモンド紙の電子版にフランスの法社会学者イレーヌ・テリー氏の寄稿「メイドと経済の大物」が掲載されました。

以下はその一部抜粋、抄訳です。

La femme de chambre et le financier, par Irène Théry
TRIBUNE. La sociologue Irène Théry analyse la difficulté de surmonter le face-à-face entre la présomption d'innocence et la présomption de véracité.

5月15日の日曜日の朝、我々フランス人は、驚き、不信感、悲嘆に襲われた。政治的にも道徳的にも前代未聞の窮地に直面し、いたるところで、フランスの汚らわしいイメージを払いのけるためにこの出来事をふさわしいところまで高める必要性があると感じている。

「DSK事件」と名づけたこの事件を検証する議論が再開された。数々の論争の渦のなか、どのようにいきつくのか? 男性の私生活や人格という三文の値打ちもないことではなく、明らかな刑事訴訟の範疇にある性的な問題の告発という重大な争点をみれば、フランスの議論に新しい分裂が出現したことがわかる。ある意味で明らかなのは、世界経済の支配者<ストロスカーン氏>だけを考慮すべきなのか、かわいそうな女性移民のホテル従業員だけに同情するのか、いまはそれを互いに批判し合っているため、理解するのはかなり複雑だ。

一方で、行為を疑われた当事者が持つ権利である推定無罪という基本的価値を、なによりまず強調する人たちがいる。最初の数日間、そうした人たちは、家長父制の秩序を喧伝する支持者として扱われていた。なぜなら、そうした人たちは、フランスの世論を作りだす人物たちのなかで圧倒的に多数派で、推定被害者の境遇とはあまりにもかけ離れているからだ。無実の男性を彼らの流儀で弁護しようと、これまで徹底的に頭に叩き込まれてきた男尊女卑的な反応がここそこで繰り広げられたのは事実である。しかし、こうした時代遅れで見当違いの言動が救済のしるしなどと、我々に信じ込ませるのは難しいだろう。提訴されるべき人たちの権利を強硬な弁護で隠す男性的陰謀なのだ。

もう一方で、当初は女性、フェミニスト、社会運動家たちが多かったのだが、その人の人格を尊重する新しい形態を民主的価値に高めようと努力する人たちがいる。法律用語で名称はまだないが、自分の権利を推定真実で訴えることができるのだ。有罪が確定するまで、性暴力や性的暴行の被害者であると意思表示する人は嘘をつかないことを前提にした推定である。性的暴行の特性は、傷害や殺人と違い、「客観的な」事実そのものを第三者の目で確認できないことにある。性的暴行は存在するのか? 対峙する当事者たちの証拠と信用性という恐ろしい問題に取り組む訴訟の前に、これらの刑事事件に問われる特殊な疑問が明らかにそこに根づいている。最初に問題になるのは、案件の推定無罪だけでなく、疑われた性犯罪が訴訟にふさわしい第三者の目で真実とみなされる可能性である。これは、推定被害者に与えられた可能性によって、実際に話しを聞かれる最初の場所で合格する可能性だ。警察署では告訴した性的被害者がますます好意的に受け入れている。しかし、フランスの政治文化において、我々は推定真実を真の権利とみなす準備はできているだろうか? まったくわからない。

フランス国民の多くが耐え難い感情を持ったため、ディアロさん(被害者)に対し、推定加害者であるストロスカーン氏に示したのと同等の尊重を認めなかった。性犯罪と性犯罪の正当性を組み立てるために、推定無実と推定真実はどちらも同じくきわめて重要であるが、今のところ私たちは、推定無実と推定真実をはっきり区別しておらず、どのように事実がつながっているかがまだあまりわかっていない。推定無罪の純真な支持者たちは、ストロスカーン氏が天下のさらし者にされたときに、彼に対する重大な原則を尊重したことを自慢した。それと同時に、暴行されたと彼を告訴した若い女性が要求している推定真実を笑いものにしていることをわかっていなかった。

相反する2つの推定をまとめてつなげる方法をいつの日か構築するための第一歩は、性に関する問題の特異性について考えることを認め、そして、西洋民主主義の我々市民に向けて、今日起きている根本的な変動がもたらす新しい共同責任を認識するために、我々の見解の領域を広げることにある。

フランスはしばしば、性、ジェンダー、セクシュアリティに関して政治的に「遅れている」との印象を他国に与えている。他国のようにフランスでも、性犯罪と性犯罪のあらゆる訴訟に対し、常識の範囲で、社会的、歴史的、人類学的に重大な提起として一丸となってとらえる機会にしなければならない。一般に、性に関する違反を心理的な領域でしか見ないのは、すべてにかかわるとみなされる価値と規準が根本的に変化している状況のなかで、あたかも性に関する違反が起きていることを見たくないかのようでもある。男女平等が進むなか、私たちには、性に関する許容と禁止に関する先例がなく、大混乱の今を生きている。最近増加している性暴力訴訟は、民主的変化の表れであり、無責任体質の徴候でもあり、両面性を合わせ持っている。

犯罪としての性暴力を考えること、性的暴行を深刻にとらえることは、伝統的な結婚の性的秩序に対する現代的な拒否に直接参加することである。女性は、誉れ高い妻と負け犬の娘、正統な家族の母とのけ者の母娘、尊敬される家庭の女主人と家事に精を出す召使というように2つのカテゴリーに分断される。性暴力を罰することを我々が重んじるのは、もはや結婚ではなく、性的な許容と禁止との重要な共有において同意を認めるという中心的価値のトレースである。

今日の性暴力訴訟はまた、変化の曖昧さの兆しでもあり、この社会の日常生活を潤し、多元主義の人間世界にセクシュアリティを組み込ませることができる一新された性的礼儀正しさの代わりに、増加するままになった虚しさを見させるほどだ。

これは個人主義と金儲け本位イデオロギーの代償であり、この世界は消費主義の閉塞した経済人たちのつまらない寄せ集めに変化してしまった。新しい性的な正常さの核となる同意は、解決と問題の両方を同時に持ち合わせている。同意します、ええ、でも何に? どうして? 同意の否定が見えないところで表現されたとき、公共、社会、司法のどの領域に伝わるのか?

我々をとらえた最初のイメージは、ストロスカーン氏だけに関心が向けられていたのではなかった。それは、2つの顔、2つのシンボル、2つの具象の衝撃である。現代社会があまりにも不平等であり、現実は小説より奇なりという具象化である。彼女は、ホテルの従業員で、ギニア出身の移民で、貧しく、ブロンクスの公営住宅に住み、未亡人で、シングルマザーである。彼は、世界で最も有名な国際通貨基金(IMF)の専務理事で、フランスの政治家の顔を持ち、左派の知識人、成功者で裕福、容易に快感を得ることができる。女性ホテル従業員と経済人。もしくは、すべてを持っている男と何も持っていない女という衝撃。

事件のなかになにやら叙情的なものが存在するのは、こうした理由からだ。ニューヨーク市警察は、ホテル従業員でしかない女性の言葉を思慮深く聞き取り、彼女の推定真実を認めた。ここで明白になったのは、彼女がたった4時間で権威の順序をひっくり返し、有力な経済人の襟首をつかまえることができたことだけではない。彼女はまた、不信、不正、そして我々の時代の希望という驚くべき縮図の一種を見せてくれたのである。そして、民主主義社会を動かす全情熱を激しく吹き込もうと、これからの訴訟を約束させたのである。

 


 

前回と今回のイレーヌ・テリー氏の寄稿に対し、2011年6月9日のリベラシオン紙電子版に、アメリカの歴史学者ジョーン・W・スコットの反論「フランス流フェミニズム」が掲載されます。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争3
フランスの大物政治家ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐるフェミニズム論争の3回目。フランスの法社会学者イレーヌ・テリー氏の「フランス流フェミニズム」にアメリカの歴史学者ジョーン・スコット氏がかみつき、さらに3人のフランス知識人が議論に参戦。
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