木嶋佳苗を考える

この事件、さほど興味がわかなかったのはなぜだろう?
マスコミが騒ぐほど、彼女が奇異に感じなかったからか…。
男性を殺害した理由はまったく理解できない。
でも、それ以外では、どこかにいそうな女の子と思えてしまうのだ。
「フワフワして、よくわからない人だな~」みたいな女の子。
性を売り物にしている人はいたし、セックス好きの女性もいたし、ブランド好きは珍しくないし。ウソつきってのも。
会ったことがあるような気がする、こんなタイプの子。

私が彼女の事件にそれほど関心がなかったのと同じように、彼女は自分の人生や未来に夢や希望がなかっただけなんだと思う。これは推測ですが。
日々楽しく、リッチに優雅に、好きな人と好きなときだけ会う生活で満足し、それ以上の夢や希望なんて、なかったんじゃないのかなぁ。
この国は、希望をもたない人を「かわいそう」「ひねくれてる」「やる気がない」と責めるけど、希望をもてない人だっている。
夢を持ってるふりをしてても、実際はそうじゃない人なんて、たくさんいそう。
“希望”って声高に言われると、鬱陶しくなるときもあるし。

どうして彼女はそうなっちゃったんだろう、とは考える。余計なお世話だけど。
田舎(という表現は好きじゃないが)ではあってもちょっとした名家に生まれ、モダンな暮らしをし、頭が良くて、早熟で、思春期に男を知り、自分の身体でお金が稼げる術を覚えた。
(売春で)出会った男たちは、“高い位”でも、寝てみたらみな同じ(じゃないか?)。
「こんなもんかぁ~」って。
30代で70歳ぐらいの域に達しちゃったのかも。人生経験抱負だもん、彼女。

結婚にあこがれていた、というのもどうだろう?
彼女は文章が上手だったそうだ。
男性に「普通の女の子」と思わせるために、結婚にあこがれてるふりをしてたとか。
“高い位”の男をはじめ、出会った男は既婚者も多く、「男は女遊びするもの」とインプットされていただろう。
それでもなお、男を信じて結婚にあこがれるだろうか?

彼女の場合、“外向性引きこもり”な印象を受ける。
一般に言われる“引きこもり”は家にこもるけど、彼女は、人(女友だちはいなかったらしいので、友だちではない男)と会うし、外出もする。
でも、自分が作り上げた世界のなかで生き、外界を現実ととらえず、深い人間関係を拒否する。

どこで彼女は踏み外したんだろう。それを他人がとやかく言ってもしょうがないのかな。
彼女そのものの奇異さより、彼女をとやかくいう人たちのほうが、この時代の奇妙な日本を反映しているようにみえる。

『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』を読んで、とっても不可解なのが、「ブスなのになぜ?」という問いかけ。
ブスがモテてはいけないの?
というより、「美人はモテる」と誰が決めた?
昔の少女マンガに出てくる美人は、意地悪でイヤな女の子。
モテるわけない、美人で性格悪けりゃ。
裁判を傍聴した美人記者(意図的だろうけど、女性記者って美人が多いですよね)、「私の人柄は最高!」と自負しているのだろうか。それもまたスゴイ。
そして、「ブス」と呼びまくる男たち。そんなこと言う権利がどこにある?
自分はそんなにイケメンなのか?
容姿はよくても性格悪いとしか思えない、そんなこと言うなんて。
勘違い男と女のオンパレードみたいで、事件そのものより面白い。

どうしてそんなに「ブス」が強調されるのか、と考えてみた。
筆者と同世代、30代やアラフォーって、ものすごく「キレイ」への執着が強い気がする。
都会的でスッとした美人。みんな同じメイクだったりするんだけど。

私はひと回り上なので、若いころには、そんなに効果的な化粧品もなかったし、ダイエット方法も限られていた。メイクのテクニックもいまひとつ。
つまり、イケてる女の子ばっかりじゃなかった。松田聖子だって最初はイモっぽかったし。

でも、いまの時代は、それじゃあダメなんだなぁ~、と。
確かに、女の子はかわいくなったし、お洒落になったと思う。
私には“同じ人(女も男も)”に見えるときがよくあるけど。
画一的な「キレイ」からはずれた「ブス」は、笑いの対象になる。ひどくない?
個性のない、のっぺりキレイな女の子のほうが、私には不気味。

本の中の彼女の描写から、テレビ番組「肝っ玉母さん」の京塚昌子さんを思い出した。
ふくよかで、色白で、お料理が上手そうで。
性のイメージから遠いところは似てないけど、彼女はこんな雰囲気だったのかも。
美人じゃないけど、ああいう女性はもてると思うよ。
いまは、あのタイプの女性はNGっぽい。
お母さん役としてテレビにも雑誌にも絶対出てこない。

50歳でも「大人かわいい」を維持するために、アンチエージングに専念しなくちゃならない昨今。
あ~、面倒くさ~い。
というより、自分らしさが失われていきそうで、バカみたい。

「ブス」をののしる女や男たちは、まさにこの社会の象徴。
大量生産の「美人」と「美男」が大手を振り、「規定外」をのけ者にしていく。かなり悲しい。

木嶋佳苗の出身地は北海道。
私も北海道で生まれたし、ここ10年ほど住んでいたので、北海道にあれこれ脚色つけられると、ふぇ~と思う。
北海道って、「北の大地」「カニがうまい」というポジティブな面と、「左遷」「淋しい北国」というネガティブな面のダブルスタンダードで描写され、とても不思議なところ。
気分で使い分けてるだけなんだろうけど、都合よく利用されてるようにも思う。

マスコミでは、都会の視点で田舎を語られがち。
田舎育ちの私としては、「ちょっと~」と口出ししたくなる。
田舎にだって文化的な暮らしはある。
クラシックも聴くし、映画も観るし、文学だって読むし。ピアノだって弾くよ。
自然に囲まれているので、感性も豊かになる。繊細な心がはぐくまれる。
と思う。人にもよるかもしれないけど。

最近は原発関係のことをしているので、ふと思う。
こういう田舎に原発って建てられてるんだよ!と。
「原発反対」と叫びながら、「田舎だから」と嘲笑するのは、矛盾してないだろうか?
話はそれるけど、7月16日の代々木公園の集会の日、原宿駅で、60~70代の女性3人組の会話が耳に入った。
「どこか田舎からでてきたみたいで、道がわからないらしくて、ウロウロしてるのよ~」「ギャハハ」
前後の文脈はわからないが、明らかに、「田舎者」を笑っていた。
この女性たちも集会に参加する脱原発派。

都会の人には、そうした意識が染みついているのかもね。
馬鹿にしているつもりはないのだろうけど、地方出身者は自信をそがれつづける。
田舎を蔑んだ意識を持った人がいて、本当にこの国から原発はなくなるんだろうか。
というより、地方でも都会でもどこでも、誰もが幸せに暮らせる国になるのだろうか。

かなり話はズレたけど、とにかく、「田舎から出てきた人は、センスが悪くてダサい」というのが、ステレオタイプのイメージなんだと思う。
そして、そういう人は、都会生活にはなじめず、落ちていく…。
そうした結末は物語になりやすい。
しかし、東京ってそんなに素敵な都市だろうか。

この事件の裁判は、3.11後にはじまった。
地方から逃れ、都会で派手に暮らし、自分をウソで固める。
愛のない関係とお金への執着。そして、命を粗末に扱う。
周りの人たちは、犯人と被害者を野次馬的に、あるいは虐めのようにあれこれ言う。
でも、喉もと過ぎれば、で、あっという間に風化していく。
この事件はなんだか、3.11とまったくかけ離れた出来事ではないように思てしまうのだ。

(2012.08.31 10:34)

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