原発事故当時の高校生は“見捨てられた世代”なのか

学校生活での被ばくに心痛める親たち

2011年6月23日から数日間、福島市に滞在し、高校生を持つ母親たちの苦悩を聞きました。

日本では18歳以下は“子ども”だが、放射線の影響の話になると、小さい子どもに集中しがちで、「高校生は大人」扱いされているよう。

高校生の情報があまりにも少ない。高校生のお母さんたちはみんなどうしているのか。

4月の新学期と同時に部活もはじまったので、「部活をみあわせることはないんですか?」と聞いたら、「ないですね」と言われた。最初の頃の練習時間はさすがに1時間ほどと短めだったが、どんどんなし崩しになった。

5月末に開催された陸上競技の県大会は、2日間雨だったが、予定通り実施された。誰も何も言わなかった。主催者たちは、スケジュールを効率よく消化することしか頭になく、延期などは考えてなかったようだ。一部の親が雨の心配をしても、「雨が降っているから何なの?」と逆に疑問をもたれかねない雰囲気だった。

子どもたちは努力して努力して、大会に臨む。「勝つために大会を目指している」という暗黙の了解があり、大会をやらないわけにはいかない。今は特別な状況。その時期に当たってしまった子どもたちはかわいそう。

大会での勝利は、学校のカンバンにもなる。でも、高校生をそういうことに使ってほしくない。これにつけこんで子どもの命を縮めていいのか、と頭にくるが、声が上がらない。

子どもの夢もつぶしたくない、でも助けたい。子どもを尊重するのが何か美徳のようなところがあるが、そうではないと思う。将来のことをやってあげるのが、親の責任。何を言われても、反抗されても、首に縄をつけても…。

野球部の子どもを持つ母親が、「もう20ミリぐらい被ばくしていると思うよ」と言って心配していた。練習前にグランドに水を撒くらしいが、スライディングをすれば砂塵を吸う可能性は高い。高校野球選手権福島大会に向けて、練習時間も通常(夜7時ぐらいまで)より少し延ばしている。

原発事故後、最初に部活を再開したのは野球部。「野球部がはじめたのなら…」と他の運動部もつづいた。野球部では、「放射線を吸えば強くなる」と言って鼓舞する監督もいた。

郡山市で行われた巨人対ヤクルト戦(2011年6月29日)の試合前には表土を削って除染したが、子どもの練習ではやっていない。子どもはないがしろにされている。

福島第一原発事故後、福島県から避難できたのは、小さな子どもを持つ家族が多かったといえます。

高校生ぐらいの子どもは、「友だちと離れたくない」「志望校に入ったのだからここで勉強したい」と反発し、親が説得できず、避難をあきらめざるをえないといいます。

学校がはじまる前に部活が早々に開始され、野球、サッカー、陸上など屋外スポーツの部員たちは、放射能で汚染された環境のなか練習に励んでいました。甲子園もインターハイも例年どおり開催されたのです。

2011年6月24日付の「朝日新聞」記事(福島版)

3.8マイクロシーベルトで試合中止 高校野球福島大会 球場で測定
第93回全国高校野球選手権福島大会(県高校野球連盟、朝日新聞社主催)の運営委員会が23日、郡山市内で開かれた。7月13日に開幕する大会期間中、各球場で試合当日朝に放射線量を測定し、毎時3.8マイクロシーベルト以上の数字が出た球場では、その日の試合を中止とすることを決めた。
学校の校舎や校庭を利用できるかどうかを判断する目安として、文部科学省が4月に示した暫定基準に沿った。放射線量の測定は各球場とも毎朝、本塁、外野、ベンチ、バックネット裏、応援席の5ヵ所で行う。1ヵ所でも基準値を超えた球場はその日の全試合を中止し、翌日以降に順延する。
雨で中断した試合を再開する際も本塁、外野の2ヵ所で再測定し、基準値を超えたら、そのまま中止、もしくはコールドゲームを適用する。再開にあたってグランドの水とり作業などに高校生があたる場合は、ゴム手袋を着用させることも決めた。

一方で、子どもを見守る親たちの心配は大きかったそうです。

福島にとどまった高校生の親たちは、子どもを被ばくから守ろうと、学校や教育委員会、県や市に数々の申し入れを行いました。しかし、教育機関は高校生に無関心でした。

高校生は1日の多くの時間を学校で過ごします。しかし、生徒たちが学校生活でどれだけ被ばくしているのかは記録されていません。

被ばく労働者は労働中の被ばく線量を毎日記録し、離職後もそれを保管することが義務づけられています。そうした措置は、学校生活ではまったく行われていないのです。

福島ではガンの疑いのある10代が増えているといいます。当時の高校生の学校生活での被ばくは証拠として残っておらず、国は放射線との因果関係を否定するでしょう。

原発事故の年に入学した高校生は2014年に卒業。当時すでに高校生だった子どもも、卒業しています。知り合い3人の子どもは県外の大学に進学しました。

事故から3年目の2014年3月、高校生(当時もしくは現在)を持つ親4人とお会いし、座談会形式で話を聞きました。

この3年間、親たちはどう闘ってきたのか? 学校は子どもたちを守る場所なのか?
生徒の被ばく防護のために適切な対策をとっていたのか?

あまり知られていない高校生たちほ被ばくの実態。“見捨てられた世代”を社会はどう守っていくべきかを考えたいと思います。

 

「全部男の人たちが決めるから」福島で話したこと(1)
2011年6月、福島で4人の女性(母親)からお話していただきました。 そのなかで出てきたのが、行政や学校にかけあう際にぶつかる壁。 これは、福島の原発事故に限ったことではなく、これまで打破できなかったがために、今回、子どもを...
「福島の農作物を食べないで!」福島で話したこと(2)
放射能は目に見えないが、空気や水、土を汚染する。福島のお母さんたちは当然、食品についても心配していた。「汚染水が海に流れたら、お魚が食べられなくなるんですよ。今の数値だったら、まだきれいにする方法もある」 2011年6月に福島で聞いた話。
2011.3.11福島原発事故直後の地元女性たちの訴え
2011年6月、東京での集会で福島からの3人のお母さんの訴えを聞いた。不思議なほど、福島からの声は、私たちに届かず、福島の方々がどのような思いで日々暮らしているのか、その実状を直接耳にするのははじめてだった。お母さんたちのお話の一部を紹介。

https://kayoko-kimura.com/blog100/ ‎

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました