2004年10月23日の中越地震を覚えてますか

新潟県中越地震が起きたのは、15年前の2004年10月23日午後17時56分。

震源地は、中学3年から4年間過ごした地域です。

テレビで速報を知り、すぐに同級生の携帯に電話をかけました。

「ヘリコプターがいっぱい飛んでるけど、停電でテレビが映らず、何が何だかわからない」

彼女の返答は、自分がテレビで観る被害状況とギャップがありました。

通っていた高校が避難所となり、同級生が住んでいた山古志村や川口町が大被害を受け、無残な姿に。

最大震度を記録した川口町の友人宅は全壊でした。
夫と子ども2人、両親の一家6人が仮設住宅、復興住宅と移り住み、わが家を建てたのは7年後の2011年です。

復興住宅で払う家賃分を先に融資し、自分の家を建てた後で返済していく、という仕組みにできないのでしょうか。

2010年、復興住宅で、同じクラス、同じ体育会系部活の男子生徒が孤立死をしたと聞きました。震災で仕事が安定せず、精神と身体が病んだようです。亡くなった翌日、仕事の採用通知が届いたといいます。

中越地震の教訓も、東北大震災で生かされなかったことに、憤りを覚えます。

以下、2005年の5月に魚沼市を訪ねたときの記事(2005年12月14日)です。

この5月、新潟中越地震の被災地のひとつ、魚沼市を訪ねました。

東京から高速バスで新潟県に入ったのですが、途中、湯沢を過ぎたあたりから、「高速」なのに道路はデコボコ。
夜だったため、周囲の様子は見えませんでしたが、地震の影響をバスの揺れで感じました。

無残な姿を覚悟していたのですが、翌日、友人宅から見た越後三山((駒ケ岳、中ノ岳、八海山)とそれに連なる濃厚な緑の山々があまりにも美しく、地震の悪夢などウソだったのではないかと思ったぐらいです。

あれほど残酷な仕打ちをしながらも、なにごともなかったかのように芽吹き、ゆるぎなく存在している自然に圧倒されずにはいられませんでした。

さらに、田植えが終わったばかりの水田には稲が整然と並び、人間の生きる逞しさが伝わってきました。地震や豪雪にもめげない強さに、ただただ頭が下がるばかりです。

ところが、魚沼市から川口町へ国道17号線を北上すると、傾いた電柱や陥落した路肩、ずり落ちた山肌といった地震の爪あとが生々しく残っていました。

壊れかけた家は雪が降る前に取り壊されたそうで、町のいたるところにブルドーザーが入り、まるで新開発地区のようで、異様な印象を受けました。

友人との話しから、考えさせられることが多々ありました。

「高校生の息子の通学が難しくなり、長岡のホテルに滞在させたかったけれど、空き部屋を探すのに苦労した」と、ホテルをマスコミに占領されたという事実も初めて知りました。
毎日流れていた地震のニュースは、被災者の犠牲を伴っていたようです。
被災者はTVも新聞も目にする余裕はなく、傍観者の私たちはそこまで情報が必要だったのでしょうか。

また、救助された男児の実家の近くに住んでいる友人は、「帰省した知り合いのなかには、彼らの家を見に行った人もいて、イヤな気分になった」とも語っていました。

阪神大震災の反省から、仮設住宅は地域ごとに建てられたそうですが、それは正解だと思います。
友人の住む仮設住宅は、自宅の目と鼻の先にあり、建て直しの様子が逐一わかります。
近所づきあいが継続でき、子供たちや高齢者も安心して過ごせるようでした。

ただ、プレハブの中は蒸し暑く、雪かきの苦労もそうとうなものでしょう。
収納場所が少なく、家財道具をどうしているのかも気になりました。

心をなごませたのは、このような環境でも、子供たちが明るく元気だったこと。
そして、大人もまた、助け合い、励まし合いながら、着々と復興を目指していました。

この地区で過ごして見直したのは、“コミュニティのあり方”です。
共同体意識の薄い都市部では、これほどスムーズに機能しないかもしれません。
精神的なダメージは、人と人とのつながりでカバーするしかないように思います。

中越地震は遠い昔のような感がありますが、一年前の出来事です。
「今朝の雲は地震が起きたときと似た形だった」と怖がる友人もいて、地震の恐怖はなかなか消えないようでした。
精神的にも肉体的にも疲労が表れ、体を壊している人もいると聞きます。

これからも支援が必要でしょう。
そのような状況で暮らしている人がいることを、忘れないでいたいと思っています。

(2019年10月23日)

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