ルワンダ、ジェノサイド(虐殺)の子どもたち

ルワンダのジェノサイド(虐殺)の際に強姦された女性たちと、その子どもたちの記事の抄訳です。仏ルモンド紙より。

Au Rwanda, les enfants du génocide
Lors du massacre des Tutsi en 1994, les femmes furent la proie de viols systématiques. Le photographe Jonathan Torgovnik a recueilli la parole des survivantes e...

1994年のツチの虐殺で、女性たちは組織的強姦の餌食となった。写真家ジャナサン・トーゴヴニクが生存者と子どもたちの証言を集めた。

数字はすべてを明らかにはしていない。国連によると、約80万人の穏健なツチとフツが、1994年春のルワンダのジェノサイドのときに亡くなったとされる。2000年にルワンダ政府が実施した国税調査によると、正確には1074017人が虐殺され、100日間に毎時447人というすさまじさである。

アフリカ中央の緑の丘陵の広がるこの国で、その総括は実際に非常に重たい。ルワンダは4月7日日曜日に、ツチのジェノサイドから25周年を記念するが、工事現場や雷雨の後にいまでも毎月死骸は掘り出されている。

極度の恐怖のなかで、人はすべてを数量化できない。生存者の葛藤、苦しみ、トラウマがどれほどかは、統計には含まれない。死亡者、ときには負傷者の数に関しては伝えても、他の人たち、目撃した人たち、生き残った人たちがいる。ルワンダには、精神的に傷ついた人たちが、生活をつづけている。

4分の1世紀は、フツの母親にとって、ツチの子どもたちを川に投げ、もしくは、ハンマーの一撃で殺害するよう強いられたことを「忘れる」のに十分な年月ではない。生存者の市民団体は、虐殺期間中に29の殺害方法を調査した。しかし、全員が死んだわけではない。

惨劇から生まれた命

強姦は、フツの民兵組織インテラハムウェによる大量破壊の武器として使われた。多くの女性が性奴隷とされた後に撃ち殺されたが、国連の報告書では、そのうち少なくとも25万人が1994年春に強姦されたと結論づけている。女性たちはしばしば、ビールの破片、バナナの枝、鋲のついたこん棒の一種のubuhiriを挿入された。

彼女たちの生殖器は、なたや酸でずたずたにされた。その殺人的狂気のなか、ジェノサイド体制はさらに、女性をゆっくり時間をかけて殺す方法を考えついた。エイズを発症している男性兵士の大隊を病院から解放し、彼らに、体力の限界まで強姦しまくる任務を与えたのだ。レイプされた女性の70%がHIVウィルスに感染していると見積もられている。

しかし、惨劇の最中でも、ときには命がほとばしった。強姦された後に抱いていた子どもを捨てた母親がいても、ほかの母親は子どもを守った。そして、ときには、愛した。南アフリカに住み、アフリカ大陸をよく知るイスラエルの写真家ジョナサン・トーゴヴニクの写真が証明するものはそれである。

2006年、彼はアフリカのエイズを取材するために、ルワンダを訪れた。彼は、ウイルスに感染した女性たち、そのうち何人かは強姦された後に母親になった女性たちに会った。約2万人の子どもが、ジェノサイド期間中に何度も繰り返された集団強姦の地獄のなかで誕生した。彼が立ち上げた『Intended Consequences』プロジェクトにある、彼が集めた証言は恐ろしい。

「女性たちは残酷な経験をした」と彼は言う。「彼女たちとの信頼関係が少しずつ築かれていった。大半は、私が彼女たちと出会う前の強姦について決して話さなかった。彼女たちは、彼女たちと共通する誰かにではなく、語り、心を打ち明ける必要があると私は思う」 彼は彼女たちと話をした後に、感情が写真のなかに現れるよう、彼女たちの写真を撮った。子どもたちはしばしば誰が父親なのかを無視し、「殺害者の息子」とか「インテラハムウェの子孫」と扱う学校でさえ無視した。写真家にとっては、12か13歳でしかない子どもたちから話を聞くのは不可能だった。

恐ろしい秘密から解放される母親

「私は10年間待ち、再び彼女たちに会いに行った」と、ピュリッツァー危機報道センターの仕事と支援で2012年にアルル写真賞を受賞したジョナサン・トーゴヴニクは話す。「たくさんのことが変わっていた。母親の大半が子どもたちに、どうやってこの世に誕生したか、いつ彼女たちがそれを知ったか、誰が父親なのかを語っていた。一方で、これらの女性たちはトラウマがあり、うなだれて歩いており、私は話すことで彼女たちを癒していると感じた」 その間に、彼は、ジェノサイド犠牲者の経済的・精神的な支援をするNGOルワンダ基金を協力して設立した。

「お互いの経験について情報交換し、他の人が同じ虐待を経験したことを、彼女たち同士で話すことができ、彼女たちは救われた」とジョナサン・トーゴヴニクは確信する。「彼女たちは、もうひとりではないとわかり、そして、それは治癒の進展に影響することになる」 10年で、アリーヌのように、エイズに関連した病気で命を失った女性もいる。家族の前で何度も繰り返し強姦されたこのルワンダ女性の私的な日記は今日、死後に発表された証言となっている。

それを読んで、彼女の娘ジャッキーは、母親が自分を守ろうとして、生物学的父親について一度も話さなかったことを理解した。「私は、強姦の結果であり、自分の父親が殺人者だと知り、恥ずかしさと痛みを感じる」と若い女性は写真家に告白した。「でも、私は母を許した。彼女が自分の恐ろしい秘密を隠したのは、私のためだった」

アリーヌと他の多くの女性が、「ルワンダの奇跡」と呼ばれるのにふさわしいことに参加した。ジェノサイドから25年、いまでは、アフリカ大陸で経済的成功に輝く国のひとつであるこの国は、安全な国のひとつにもなった。すべてを忘れるのは不可能であっても、時が忘れさせ、ルワンダ人はともに生きていく。

ジェノサイド撤廃国家委員会(CNLG)の本拠地でもあるキガリでは、つねに慎重でいることが好まれ、「和解」については話さず、「平和的共存」について語られる。「2008年まで、ジェノサイドに関する裁判で、被害者や証言者から数多くの殺害について語った」と、CNLGのジャン=ダマセーヌ・ビジマナ理事は言う。「否定主義者と修正主義者の議論がいま展開されているにもかかわらず、それはもはやほとんどない」 数がそれを裏づけている。

2006年、ジョナサン・トーゴヴニクは虐殺の生存者とその子どもたちに会いに行った。彼は2016年に再び彼女たちに会ったとき、息子と娘が生誕の秘密を知っていた。この作品は、ジェノサイド後の生々しく明白なまなざしである。

ジュスティンと娘のアリス

ジュスティン:「民兵たちが私をバナナのプランテーションに連れていき、3日間ずっとレイプしつづけた。私が先に隠れていた教会で、両親、兄弟、姉妹が殺された。家族のなかで生き残ったのは私ひとりだった。昨年、私は娘に、ジェノサイドのときにレイプされた後に彼女が生まれたと言った。私をレイプしたたくさんの男のように、私は彼の父親が彼なのかを無視した。それを知り、娘はショックを受け、トラウマになった。私のほうは、癒された。アリスが私に質問したら、私は今HIVと闘っていると言うことができた。私は次の機会を待っていて、彼女にそれを知ってもらいたいと思っている」

アリス:「私はジェノサイドの強姦で生まれた。私が若いとき、母に誰が父親なのか聞いたら、彼女は答えなかった。彼女がついに私に話したとき、悲しかったが、もうこれ以上母を苦しめたくないので、強がってみせた。心の底では、やっと事実がわかって幸せだった。私は母を悲しませたくないので、質問はしない。父が誰なのかを知るために調べない。父が殺人者のひとりであり、動物でさえ犯さないことをしたのだけは知っている。母との議論の後、私たちの関係は改善した。以前、私は悲しかった。今は、自由を感じる」

ステラと息子のクロード

ステラ:「私は生まれた息子が死ぬのを見たかった。息子に何も与えられず、母乳さえでなかった。コンゴ(ザイール)の難民キャンプで、フツ民兵の性奴隷になった。そして、私をレイプした男のために、とても辛い仕事をした。息子がどのように宿ったか、彼に言うのはとても難しかった。でも、彼に事実を明かしたら、重荷を地面に降ろした感じがした。今、クロードは若者になり、彼に希望を抱いている。私は息子が、たくさんの他の木々を生むことができる枝をたずさえた木のようにみえる。息子は私の人生のすべて、愛している」

クロード:「自分を強姦した男が、彼に従わなければ殺すと母を脅したことを、母が語ったのは、私は母と夕飯を食べているときだった。母は妊娠し、私が生まれた。母が森を超えてキャンプに逃げたとき、枝につまずき、地面をころがった。母はたぶん私を捨てるつもりだったのだが、私を連れていった。母がそれを話したとき、私は悲しかった。自分の生まれ方を考えて、恥ずかしかった。そして、父とそのことを話したいと思ったが、彼は死んでいた。私は責任感のある男になりたいし、自分の将来を築き、母が私を愛したように子どもたちを愛したい」

ベルナデットと息子のフォスタン

ベルナデット:「私をレイプした男は、私が彼に横柄だったかのように、もっと小さくなれ、と民兵たちに話した。彼らは、骨が砕けるまで、私の足を打った。その後、私は足を切断し、息子が生まれた。出産の日まで、私は妊娠していることを隠そうとした。でも、この子を受け入れることにし、今では息子といい関係だ。彼の父親は有罪になり、許しを請うためにうちにやって来た。彼は私を苦しめたが、ジェノサイドのときに殺された他の女性たちとは逆に、彼は私を生かしたままにした。なので、私は彼を許した。25年経ち、私はトラウマを感じない」

フォスタン:「ジェノサイドの記念日のたびに、父の名前が殺人者のひとりとして挙げられ、胸が締めつけられる。私は刑務所に父に会い行き、聞いてみた。”なぜ殺したんだ?” でも、彼は羞恥心があり、答えたくなかった。母は彼がやったことを許し、私も同じく許した。強姦の後で生まれたことは、私を悲しくさせたけど。私は同時に、母が耐えたすべてのこと、起きてしまったことで彼女が人生で手に入れられなかったすべてのチャンスについて、残念に思う。寝る前に、ときどき長い時間、自分の出生を自問する。いまは、学校でとても一生懸命勉強をしていて、身近に感じる母をがっかりさせないようがんばっている」

ヴァレリーと息子のロベール

ヴァレリー:「私を守ってくれると思わせた男にレイプされたのは、15歳のときだった。国を解放したルワンダ愛国戦線の反逆者たちが、私の住んでいるところに近づき、彼は私をタンザニアに連れていった。妊娠したとき、彼は私を妻だと言い、私と結婚した。でも、私は一度も彼を愛さなかった。私は女性たちが愛の喜びを話すのを聞くが、私はそれが何なのか知らない。私にとって、セックスは拷問だ。この子がいないほうがいいし、この恥を抱えたくないと思ったのは確かだ。殺害者の父親が刑務所から出てきたとき、息子は私に、父に会いたくないと言った」

ロベール:「父親と一緒の子どもを見ると、本当の家族を持っていないことに苦しんだ。若いとき、母の姉妹が、私をフチ扱いした。私はなぜかわからず、それを彼女たちに言った。それで、母は私に、たくさんの他の女性を殺した男に強姦されたことを話した。母は私を愛していて、私を励まし、私を信じていると言った。多くの強姦の被害者が、苦しくて、自分の子どもに真実を言わないけど、母は勇気があり、私は母をとても尊敬している」

アリーヌと娘のジャッキー

アリーヌ:「私には生活がない。両親と12人の兄弟は教会で虐殺された。夫は、子どもたちの学校で撃ち殺された。子どもたちは、少なくとも14人の民兵に子どもたちの目の前で強姦された後、彼らを失ったと私は思った。4日間、彼らは私を強姦し、そして捨てた。私は、自分を殺させるつもりで、死ぬために、村までたどりついた。でも、別の男と地獄がつづいた。出産したとき、娘を見たくも、触りたくもなかった。この子をどう愛せばいいのか? とにかく、私たちは再会したが、彼女に話すことができなかった。2001年、私はエイズだと告知された」(アリーヌは2009年に死亡)

ジャッキー:「私が笑うたびに、母は、私の父(フツ族)のようにひどい奴らの笑い方だと言った。母は、私が存在してはいけないと断言した。ある日、母は私を火のなかに投げようとしたが、兄弟のひとりが私を救った。母は亡くなったが、今でもまだ母を愛している。母の死後、彼女の私的な日記を見つけた。彼女は、耐えてきたこと、私への感情をそこで語っていた。母が私に真実を決して告白しなかったのは、私を守るためだったので、私は母を許している。私が読んだことのすべてがそれだ。返答のないままの疑問があっても、いまは、前に進み、勉強でいい成績をとらなければならない。私は弁護士になるのを夢見ている」

クレールと娘のエリザベット

クレール:「ジェノサイドの前は、家族がいた、両親、子どもたち、いとこたち…。誰も生き残らなかった。私はまず、司祭の部屋で強姦された。最後の人は、”ツチの女と楽しむために”彼の友だちたちを呼び、彼らはそれぞれ3回私をレイプした。そして、彼らは私を殴り、歯を折り、死ぬよう置き去りにした。妊娠していることを知ったとき、中絶したかったが、どうやるのか知らなかった。生まれた娘を殺そうとしたが、娘は私の家族に似ていて、娘は私の一部であると理解し、愛しはじめた。いまでは、私たちはとても強い関係だ。私は娘を、どちらかというと妹のようにみている。
私の歯は、ルワンダ基金のおかげで再生された。その歯を折った男に、私はそれをすぐに見せ、彼に微笑んだ。以前、私はその人のことを考えると、石に投げつけてやりたかった。いまでは、彼に微笑みを投げかけている」

エリアベット:「これら2枚の写真の間に、11年経ち、たくさんのことが起きた。母は私に自分の出来事を語り、私は今、自分が誰だかわかって幸せだ。母が私に告白したとき、それが彼女のトラウマになっているとみえたので、私は詳細を尋ねなかった。私はとても悲しかったけど、多くの子どもが両親を失っているのを知っていたし、私には母がいて、それが私を元気づけている。以前、私は何も疑わなかった、弟と妹には父親がいるのに、私にはいなかったので、私の父はジェノサイドのときに死んだのだと思っていた。父はどのキャンプにいて、犠牲者なのか、加害者なのか、自問した。いま、私は妊娠している。私は自分の父親をもつチャンスに一度も恵まれなかったので、夫が子どもたちと過ごすことを祈っている。

(2019年4月9日)

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