フランス植民地支配から学ぶこと「ニグロとして生きる」

フランスの植民地支配については情報が少ない。
2013年11月に日仏会館で開催された「エメ・セゼールと世界の植民地化」に行き、ずっと気になっていた『ニグロとして生きる』をやっと読みました。
そのなかから心に留まった文章を記しました。

ここで語られているのは、ヨーロッパによって植民地化された国々だけでなく、日本の朝鮮半島の植民地化でもあり、原発事故のあった福島でもあり、そして、国家でなくとも強者により植民地状態にされている弱者(地域や人々)のこと。
そう思わずにはいられません。

1956年9月19日から22日にかけてパリで開催された「第一回黒人作家・芸術国際会議」における、エメ・セゼールの講演より

……ヨーロッパ植民地支配が侵入したところではどこでも、お金に基礎をおいた経済の導入によって、家族が崩壊するとともに、共同体の伝統的な絆が断ち切られ、弛められ、社会的・経済的な構造の破砕が引き起こされたのです。……

……ヨーロッパは、支配下に納めている地域すべてにおいて、お金に根拠をおいた経済・社会システムを創案し、導入したのです。そして無慈悲にすべてを排除したのです。私は「すべて」と言いたい。文化、哲学、宗教のすべて。一部の特権的な人間や人びとの富裕化の進行を遅滞させるか、あるいは鈍らせることができるすべてです。……

どんな植民地支配であろうと、長期的には植民地化された社会の文明に死をもたらすことをみてきました。しかしそれでは、つぎのように言えるのでしょうか。現地の文明が死ねば、植民地支配者はその代わりに別の文明、現地の文明よりも高度な文明、植民地支配者の文明にほかならない文明を根づかせる、と。

……植民地支配の結果として世界に、フランスやイギリス、あるいはスペイン文明の新芽が出てくるだろうというのです。……まさにそこに幻想があるのです。

……植民地支配下にある国においては、技術はいつでも現地社会の外縁で展開され、被植民地者がそれを自分のものにできる可能性などまったくないのです。……知的機能についていえば、低識字率や粗悪な公共教育を特徴としていない被植民地国はひとつもありません。……

……植民地支配者にとっては、植民地化された国に自分の文明を輸入するとは、とりもなおさず、率直に言うならば、現地の資本主義建設、現地の資本主義社会の建設を企てることを意味します。それは同時に本国の資本主義のイメージと競合を意味するのです。

現実界を一瞥するだけで、本国の資本主義が植民地の地場資本主義を生み出した地域はどこにもないことが確認できます。

2004年に行われたフランソワーズ・ヴェルジェスとの対話より

……君は、とてもとても長いあいだ、奴隷だった。だからその年数を掛けた数が、君の受け取る補償だ」。すると、それでおしまいです。私からすればこの行いはけっして終わりにできない。それは償いようのないことなのです。……

……私はヨーロッパ人というものを熟知しています。「なるほど、ではいくらだ? 交易の償いに言い値の半分をあげよう。それでいいね? さあ解決だ」。これでおしまいです。彼らは補償をしたわけですから。ただ、私にしてみれば、これはけっして償いようのないことです。ですから「補償」という語はあまり好きではない。この語には、補償は可能であるという含意があります。西洋は何事かをすべきですし、諸国の発展と生成を援助するべきです。これは私たちに当然果たすべき援助ということですが、補償をえるために提示すべき請求書があるなどとは思っていません。援助であって、契約ではないのです。これは純粋にモラルにまつわることです。

繰り返しますが、私にとってこれは償いようのないことです。数々のあくどい所業に及んできた者がこれらの諸国人民を援助しなければならないのは、至極当然のことのように思えます。

……ヨーロッパ人は新しい資源を思いつき、自分たちに人間を売るよう、アフリカ人をどうにか説き伏せた。これは、あくどい汚らしい商取引だった。いったいどんな補償があるというのです?……たいしたことじゃない。アフリカは補償を受ける権利がモラルの面であると思います。……

私の考えでは、ヨーロッパ人は私たちにたいする責務がある。すべての不幸な人びとにたいして、そうであるように。しかし、私たちの場合には、もろもろの不幸の原因はヨーロッパ人にあるのだから、なおさらそうです。……私の考えでは、人間には人間に手を差しのべる義務がある、しかも、その人に他者の不幸にたいする責任がある程度ある場合には、なおさらそうです。私はこのことを、訴訟やら起訴状やら告訴やら賠償やらのかたちにしたくない。……ようするに、支払うべき請求書があるわけで、だから解決はつくことになる。そうじゃない。けっして金銭で解決されないのだから。

フランス領植民地に比べれば、イギリス領植民地のほうが、同化の度合いはきわめて低いのです。フランス人は普遍を信じてきたし、彼らにとって、文明はたったひとつしか存在しない。彼らの文明があるのみです。私たちは彼らとともにそのことを信じてきた。だが、この文明のうちにもまた野蛮性、未開性はある。この亀裂は、フランスの19世紀全体に見られる。ドイツ人、イギリス人は、フランス人よりも前に、単数の文明など存在しないことをはっきり理解していた。存在するのは複数の文明です。ヨーロッパ文明、アフリカ文明、アジア文明があり、こうした文明はすべて特殊な文化によって形成されているわけです。ようするに、この視点からすれば、フランスは非常に遅れていた。

現在、フランスは文化的差異に直面するのを余儀なくされています。しかし、それを強いているのはまさに歴史です。フランスは、「アルジェリアはフランスである」と長らく言い続けてきた。しかし、それは間違いだった。フランス人は、ある日、アルジェリア問題、アフリカ問題を前にして、はたとそのことに気づいたわけです。歴史がようやくこうした事々を修正したわけですが、私は以前からこうなるのを予感していました。

大切なのは、私たちが人間を信じられるかどうかを、そして、いわゆる人間の権利を信じられるかどうかを知ることです。自由、平等、同朋愛に、私はいつもアイデンティティを付け加えます。というのも、もちろん、私たちはアイデンティティへの権利を有しているからです。

……私の考えでは、人間はどこにいようとも人間としての権利を有しています。人間にたいする敬意が根本的であると思われます。……

……私たちは、各人民がそれぞれの文明、文化、歴史を有していることを学ぶ必要があります。もっとも強い者がもっとも弱い者にふるう野蛮、戦争、抑圧を作り出す権力にたいして戦う必要があります。根本的なことは、ヒューマニズムであり、人間であり、人間に帰すべき敬意であり、人間の尊厳にたいする敬意であり、人間の発展への権利です。……

(2014年8月7日)

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