2007年に札幌で傍聴したDVと児童虐待の裁判から

札幌で起きた2児虐待事件の2回目の裁判を傍聴した。

被告の母親は、同居中(といっても1ヶ月間)の男が自分の子を虐待するのを助けられず、2児とも男の虐待が原因で死亡し、その遺体を遺棄した容疑で母親も逮捕された。

夫の収入が不安定だったため、彼女はやりくりに困って風俗のバイトをはじめ、そこで男と知り合う。

「家に帰っても楽しくないから」という軽い気持ちで、その日男についていったのが最後。
1ヶ月間、ほとんど監禁状態に。

同居の翌日から暴力がはじまり、自分だけでなく子どもにも暴行がおよんだ。
彼女は逃げることも助けを求めることもしないまま、二人の子どもは命を落した。

子供への暴行がエスカレートしても、母親は止めることができなかった。
抵抗すればするほど、子どもが虐待されると思ったからだ。

彼女は「逃げたかった」し、「助けを求めたかった」が、「失敗したらどうしよう」「子どもが殺されるかもしれない」と震えて動けなかったそうだ。恐怖心から、彼女は行動を起こすより、男に従うことを選んだという。

「なぜ逃げなかったのか?」

DVの経験のない人は疑問に感じるが、被害者にはこうした行動がよく見られるという。

彼女の場合、男が“警察”の名を出し、逃げても居場所を突き止めることができると脅されていた。彼女の家族にも報復すると言われていたそうだ。
彼女はそのウソをすっかり信じ、逃げ場がないと思い込んでいた。

この男は、妻と子どもに暴力をふるい、札幌地裁からDV防止法による保護命令を受けて、母子に近づくのを禁止されていた。
そうした人間がカウンセリングも受けることもなく野放しにされ、容易に次なる餌食を手に入れることができる社会はおかしい。

法廷では、「助けを求めることができたのではないか?」という質問が繰り返されたが、電車内でのレイプを見てみぬふりをする人がいるこの国で、この言葉は空しいだけだ。

助けを求めても助けてもらえないのではないか?

日常生活でこんな不安がよぎる人もいるだろう。

彼女がそう思ったかはわからないが、気軽に助けを求めたり求められたりする環境ではないとき、“助けを求める”のに慣れていないとき、「助けて」と言うのは、かなり勇気のいることのような気がする。

「男のウソを信じたのか? 普通ならおかしいと思うはずだ」

男は、「警察関係の知り合いがいるので、携帯電話から居場所がわかる」と言っていた。

明らかなウソなのだが、それがウソか本当かを見破るのは難しい。オレオレ詐欺にだまされる人だっている。

社会の仕組みに疎いといえばそれまでだが、情報があふれているわりには、どれが真実でどれが虚偽なのか、非常にわかりにくい。

DVと児童虐待の裁判から透けて見えるのは、社会の歪みだ。

もちろん、子どもを救えなかった母親に何の責任もないとは言わない。
服従を選ぶ女性は少なくなく、また、甘えにも問題があるともいえる。

(重苦しい裁判の後なので、だんだん論点がずれてきてしまいました。)

最後に、彼女の刑を軽減するために、900以上の嘆願書が提出された。
この事件は氷山の一角で、DVに苦しむ女性はたくさんいる。
家庭内暴力は、家庭内だけでは解決できず、社会全体で取り組まなければならないと思う。

 


 

2児虐待死の3回目の法廷を傍聴。
今回は、DV問題の専門家でもある東北大学大学院教授・沼崎一郎さんの証人喚問でした。
その内容は後ほどまとめて紹介しますが、それよりなにより、この裁判に漂う、ダラ~っとした空気が気になってしょうがない。
前回の法廷で驚いたのは、若い女性検察官のタメ口ともいえる口調。
「だからね、あなたね、ってわけでしょ?」といった調子は、優等生の生徒会長がヤンキー系同級生を責めているようでもある。

今日は、裁判長の口の利き方に憤りを感じた。
質問の主旨は、「すべての女性がDV被害者になりうるのか?」で、私自身も気になる点だった。
しかし、その聞き方が、「だからサ…」といったぐあいにはじまり、「みんながみんなDVの被害者になるわけじゃないでしょ!」とややキレ気味に言い切り、何か言いかけて、「まぁいいや」とやめてしまった。
前回も、「まぁいいや」と途中でやめた。

全体的に流れるだらけたムードは性にからむ事件に対する蔑視と関係している気がする。
被告人が“DV男に翻弄されて2児を失ったナイーブな若い女性”というレッテル。
命を奪われた2児を軽く扱っているようで、腹立たしくなってくる。
虐待され、殺害されたのに、裁判所でも大人たちに“どうでもいいように”扱われ、なんてかわいそうなんだろうと思う。

DV被害者が社会的に理解されていないことも、この裁判からは見えてくる。
DV加害者と被害者、そして子どもの事件は、“取るに足らない”程度にしかとらえられていないようだ。
でも、本当に“どうでもいい”事件なのだろうか。
毎日、シェルターに逃げ込んでくる被害者はいるし、逃げることもできずに耐えている人もいるはずだ。
DV被害者は将来、加害者になる可能性が高く、服従に何の疑問も抱かない女性が延々と育てられている。
この連鎖を断ち切るための仕組みはほとんど機能していない。

人を食ったような裁判自体が、精神的な苦痛を与えるDVのように思えてきた。

検事は若い女性二人。
事件が軽く扱われているような気がしつつも、“若い女性”というだけで“軽く扱う”と思ってしまうのだから、私も固定観念に縛られているみたい。

とはいえ、おんな子どもの事件だから軽く扱ったのかも、とうがった見方もできなくもなく。

毎日のように虐待された幼児が殺害され、10代の少年が犯罪者になっている。

出産率の増加作戦よりも、子どもの命が奪われない方法、少年少女が道をはずさないで生きる方法を真剣に考えたほうが、少子化対策としては効率が良いかもしれないのに。

(2007年6月2日)

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