アラブの秋、チュニジアの出発 2011年制憲議会選挙

2011年10月20日、フランスでは、カダフィ大佐の殺害場面が何度もテレビで放映された。
そのたびに目を背けるか、チャンネルを変えるか。
とても直視などできない、残酷な映像だ。

「知られたくない真実」を葬るために、カダフィ大佐は裁かれることなく殺害されたのではないか。
こうした憶測が飛び交っている。

サルコジ大統領は、カダフィ大佐と原子力に関する会談をしている。
独裁者の死によって、リビアがどうなっていくのか、まったく予測がたたない。

カダフィ大佐が殺害された20日、フランス在住のチュニジア人有権者による制憲議会選挙がはじまった。
新憲法を策定するための議員選出選挙で、217議席のうち、フランス在住チュニジア人から10議席選ばれる。
手元の資料によると、全体的には、政党数は110、候補者11000人で、無党派を加えた1570のリストから選ぶそうだ。
有権者数は約750万人だという。
居候している友人の夫がチュニジア人で、毎晩、選挙の準備をしていた。
フランス国内では、44のリストが候補者を立てている。有権者は6~7万人とのことだ。
数が多すぎて、主張の違いをどう区別するのか、とも思う。
世論調査では、イスラム政党(Ennahda)が20~30%獲得するだろうと予測している。

フランスの投票は3日間、国内数ヶ所で行われた。
最終日22日(土)の夜7時ごろ、投票場のひとつ、16区のチュニジア領事館に行ってみた。
最寄り駅の地下鉄のホームには、投票を終えたチュニジア人がたくさんいた。
領事館の前は長蛇の列。

3歳ぐらいの娘を連れた男性は、この選挙に「期待している」と満面の笑みで答えた。
パリに数年住んでいる若い男性二人は、「チュニジアの民主主義がはじまる」「たくさんの人が投票に来ていて驚いただろう?」と笑った。

どの顔も喜びにあふれていた。

自らの手で、ゼロから民主主義の国を作り上げる。
前途多難ではあろうが、可能性に満ちている。
うらやましいと思った。

(2011年10月24日)

2010年12月にチュニジアで起ったこと

チュニジアの民衆が、独裁政権を転覆させた。
日本では(少なくとも私には)、今年に入り、突然飛び込んできたニュースだった。
12月にチュニジアで何が起こっていたのか、日本ではほとんど報道されていない。

そこで、海外のメディアで調べてみた。

チュニジアの内政については、まったくというほど知らなかった。

パリに住む友人の夫がチュニジア人で、昨年11月、何度も会って話をした。
「モロッコに比べてチュニジアは抑圧的な雰囲気」とは聞いていましたが、まさかこうした事態になるとは。

友人の夫に、「日本はどうして自殺者が多いのか? チュニジア人は自殺しない」と言っていたのが心に残っているので、今回のチュニジアの動乱のきっかけが、失業中の青年の焼身自殺だったのには驚いた。

今回の出来事は、チュニジア人に大きな衝撃を与えたのだと思う。

日本のマスコミ報道の中心は、「治安」と「邦人の安全」で、チュニジア人の抗議行動を「暴動」と呼び、「不穏で危険」といった印象を与えている。

海外のネットメディア(アフリカやフランス)が、「民衆の力による独裁政権の崩壊」と一般的には肯定的に伝えているのとは対照的だ。

チュニジアで抗議行動に立ち上がったのは、特に若者だった。
大学を出ても職がなく、汚職にまみれた政府を信用できず、自分の国に明るい未来を見出せない若者たち。
どうも対岸の火事とは思えない…。

12月17日、チュニジア南部のシディブジッド(Sidi Bouzid)で、失業と政治腐敗に抗議して、26歳の青年が焼身自殺を図った。
果物や野菜などの路上販売をしていたモハメド・ブアジジ(Mohamed Bouazizi)は、警察に商売道具を没収される。それが引き金になった。
その青年は大学卒の高学歴だったが、就職ができず、失業中だったという。

この事件に端を発し、若者を中心に、ベンアリ大統領の独裁政権への不満が爆発。
抗議行動は瞬く間にチュニジア全域に広がった。

チュニジアで何が起こっているか。
インターネットのおかげで、それがリアルタイムでわかる。

現地から情報を発信しているブログのひとつA Tunisian Girlの投稿(英語、フランス語、ドイツ語、アラビア語で書かれている)から、現在にいたるまでの動きを抜粋してみた。

12月17日(金) 焼身自殺を図った青年が死亡
12月19日(日) シディブジッドで抗議デモ
12月22日(水) 別の若者が自殺
12月24日(金) シディブジッドで抗議デモ、その最中に数学教師が警察の拳銃に撃たれて死亡
12月25日(土) 抗議デモ
12月27日(日) 抗議デモ
12月28日(月) 弁護士が抗議
12月31日(金) 弁護士が抗議
1月3日(月) 抗議デモ
1月6日(木) 弁護士がストライキ、ブロガーのひとりが逮捕される
1月9日(日) 抗議デモつづく
1月13日(木) 夜間戒厳令

A Tunisian Girlのブロガーはフェイスブックでも情報を発信している。
一時はフェイスブックがハッカーに侵入され、使用できなかったというが再開した。

このブログ以外にも、多くのサイト、フェイスブック、ツイッターが情報発信し、チュニジアの現状を伝えている。

アルジャジーラ・イングリッシュは、1月15日、「チュニジアの政権を交代させたのはソーシャルメディアの力か?」といった内容のニュースを流した。

番組は、allafrica.comのサイトで見ることができる。
解説にはこう書いてある。
「ツイッター、フェイスブック、ウィキリークスがベンアリ政権の崩壊にひと役買い、ここ数週間のチュニジアの抗議行動情報を素早く広めた」とアルジャジーラはレポートした。しかし、同局は、これを「ウィキリークス革命」と呼ぶにふさわしいか?と問うている。

(2011年1月17日)

海外メディアが伝える「チュニジア」

大手メディア以外で、チュニジアの情報は収集できる。

とりあえず、ネットメディア
allafrica.com(英語)
afrik.com(フランス語)
afrik.com(英語)
RFI(Radio France International(英語)

IPS(Inter Press Service)のサイトに掲載された、12月31日付の記事「アラブ世界を揺るがすチュニジアの不穏」を紹介(ほぼ全文ですが、逐一全訳ではありません)。

Emad Mekay 2010年12月31日 カイロ

西側諸国がクリスマスの祝いで忙しかったり、大雪による飛行機の遅れで年末旅行の調整をしていたとき、北アフリカの静かな国チュニジアは、3週間前に起きた信じがたい事件をきっかけに、ベンアリ大統領の独裁体制に抗議するデモが行われていた。

2009年のイランの大統領選挙に反対して今回と同様の抗議が起こっていた期間、アメリカとヨーロッパではメディアや政治家が癒着に向かい、予想もしなかった出来事が西側メディアから全く無視されてしまった。チュニジアのブロガーたちやツイッター投稿者たちは、動乱の行方を刻一刻と伝える主要な情報源となった。

ベンアリ政権は、中東において、国民に対する厳しい統制を誇りとする“穏健的な”親西欧アラブ体制の手本といえる。

大卒の26歳の失業者モハメド・ブアジジが、果物と野菜の荷台を没収されたことに抗議し、シディブシッドの中心街で焼身自殺を図ったのが、動乱の発端だった。

少なくとも二人の大卒の若者が、アラブ諸国の貧しい経済状況に抗議し、ブアジジの後を追って自殺した。

西欧の後ろ盾をもつ多くのアラブ諸国では以前にも似たような動乱が起こり、警察力で弾圧している。武力での弾圧、活動家を追跡する家宅捜査、大量逮捕、収容者の拷問も報告されている。

シディブシッドへ通じるすべての通信と交通を遮断し、警察は町でのデモをつぶした。

ベンアリ政権は、民衆の抗議行動に直面した全てのアラブ独裁者による典型的な批判と同様に、扇動者たちを「過激分子」「騒動屋」「金銭ずくの少数派」と非難した。

コミュニケーション省の大臣は、チュニジアのカフェやパブリックビューでのアルジャジーラの放送を禁止したという。

あるブロガーは、「インターネットも弾圧している。いくつかのサイトやフェイスブックのアカウントがブロックされた。今後は投稿できないかもしれない。私が突然消えたら、どうか祈ってください」と書いていた。

アラブ諸国からは、チュニジアを支援するコメントが書き込まれた。

ドバイからは、「アラーに感謝する、この地域の民衆がついに目覚め、不正と汚職を広げる暴君に抗議している」との投稿があった。

「アラブ体制の終焉はそこまで近づいた」とエジプトからの投稿もあった。

他のアラブ人たちは、鼓舞されながら、抗議デモを見つめている。チャットのフォーラムやソーシャルメディアでは、アラブ人たちが抗議者に拍手を送り、彼らを”英雄”とさえ呼んでいる。

動乱は物価高騰や失業によってはじまったが、ベンアリ政権を崩壊させるためのデモという政治的な抗議へと転向したと言う。

他の石油産出国ではないアラブ諸国のように、チュニジアもまた、西欧の影響による民営化計画や、別の収入源を提供されないまま主要産物への補助金削減を施行している。

チュニジアが忍耐強く待てなかったように、経済改革は全く効果がなかった。ソーシャルメディアの画像や動画は、飢えと貧困の象徴であるパンを手にした抗議者たちを映し出している。

ショックをやわらげようと、ベンアリ大統領は小規模な内閣改造を行ったが、内務省には手をつけなかった。大統領は抗議者の弾圧を誓った。

(2011年1月18日)

イラクで失業や水・電気の供給を求めて抗議デモ
2018年夏、イラク全土で水と電気、仕事の供給を求める大規模なデモが広がった。デモの参加者は若者が多い。「イラク戦争から15年経ったにもかかわらず、生活に必要な水と電気の供給が十分ではない」とイラク南部バスラに住むフサーム・サラ医師は語る。

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