DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争4

フランスの大物政治家ドミニク・ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐり、アメリカとフランスで交わされたフェミニズム論争の4回目です。

前回は、アメリカの歴史学者ジョーン・スコット氏が、イレーヌ・テリー氏(社会科学高等研究院)、クロード・アビブ氏(パリ第3大学)、モナ・オズーフ氏(フランス国立科学研究センター)、フィリップ・レイノー氏(パリ第2大学)の名を挙げて、「フランス流フェミニズム」を批判しました。

それに対し、上記4人が「フランス流フェミニズム」を弁護する寄稿を発表します。

この記事には、足で「ブルシット」と書きながら、逆さまにした本を手にして読んでいる女性のイラストが添えられていたそうです。「ブルシット」はフランス語で「ナンセンス」、もしくはもっとしとやかに言うと「くだらない」の意味があります。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争3
フランスの大物政治家ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐるフェミニズム論争の3回目。フランスの法社会学者イレーヌ・テリー氏の「フランス流フェミニズム」にアメリカの歴史学者ジョーン・スコット氏がかみつき、さらに3人のフランス知識人が議論に参戦。

侮蔑的な記事に怒ったスコット氏は、2011年6月22日のリベラシオン紙に4人への「ジョン・スコット氏の回答」を発表しました。

「私はクロード・アビブ氏とその仲間たちから、耳が聞こえず、頭が悪く、目の見えない、彼らが『フランス流フェミニズム』と呼ぶものの擁護を確証するために述べたエレガントな散文を理解できない人だと非難された」と文章ははじまります。

スコット氏は、自分がフランス語を読めないわけでも、書けないわけでもないと弁明し、「根本的な哲学的不一致」が原因だと言い切りました。

そして、4人が「フランスの統一されたフェミニズムの名のもとに声を上げた」のではないことが最も重要であり、「歴史的に、フェミニズムが国民性だと言い張るのは間違っている。フランス流フェミニズムなど存在しない。フランスにおいても、他の場所と同じように、フェミニズムはつねに複数であり、激しい議論を経験する」と断言しました。

さらに、「男女関係は生活習慣の領域と関係しており、その関係は政治の領域の外に位置する」という4人の考えとは反対に、「家族、カップル-結婚していようともいなくとも-は、その内部で権力関係が行使される体制である」と明言します。「ギャラントリ(フランス特有の女性への心づかい)が、……礼儀正しさ、尊重、寛容さによって性の不平等を補うと提案する著述家たちは、不平等な力関係で生じる問題をバラの花で覆い、見えなくしようとしている」と糾弾しました。

「これらの問題は、平等な扱いの恩恵に浴したいと要求してきた何世代ものフェミニストがもたらした闘争の中心にある。すべての政策で女性と男性が平等に扱われることを、女性たちは望んでいる」「アビブ氏とその仲間たちが擁護している差異主義は、フランスのフェミニストたちが非常に長い間闘っている不平等の根源である。もし誘惑が男女関係の理論のカギを表すのなら、政界と社会生活-カップル関係だけでなく家族も-のすべての領域での不平等は、回避できない結果になる」

スコット氏はこう返答しました。

 

フランス国内から、スコット氏を支持する声があがります。

「リベラシオン紙の6月9日に掲載されたジョーン・スコット氏の返答記事に、我々は感謝しなければならない」と書いたのは、作家で哲学者のディディエ・エリボン氏(アミアン大学教授)でした。

彼の寄稿「フランス流フェミニズムか新保守主義か」は、2011年6月22日のリベラシオン紙に掲載されます。

エリボン氏は、スコット氏の記事の反響が大きく、対戦相手たちの激怒から、スコット氏が「重要かつ触れにくい問題を提起してくれたことがよくわかる」「スコット氏は、嫌悪感を引き起こす、特殊な議論を喚起しただけでなく、フランスの知的生活の一連の流れに影響力を及ぼすイデオロギーの一貫性を再編成し、1980~90年代の右派の政治思想のへ顕著な移行、誇張ではなく、保守主義革命というように説明できることを彼女は促した」と分析。

そして、4人組による6月17日付リベラシオン紙に掲載されたスコット氏への反論で明らかになったのは、「左派であると常に意思表示している人は、昔から右派であると表明している人と一緒になって、1960~70年代の社会的・文化的批判の遺産から生じたすべてのものを根こそぎにしようと、きわめて反動的な議論を作り上げている」ことだと説明します。

エリボン氏によれば、「これらの著述家のターゲットのひとつはフェミニスト運動」であり、「『アメリカ・フェミニズム』に対する『フランスの特殊性』を擁護するふりをしながらも、それは通常のフェミニズム、特に、復讐を目的としたフランス・フェミニズム」でしかなく、その証拠を次のように示しました。「クロード・アビブ氏の著書がほぼすべて1970年代のフランスのフェミニスト、さらにその前の、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの愚行を告発するのに費やされている。男女の誘惑の魔法のゲームを壊したのが、ボーヴォワールだった」

こうした思考は、モナ・オズーフ氏へ捧げられたアビブ氏の作品、『フランスのギャラントリ(フランス特有の女性への心づかい)』でも「吐き気がするほど繰り返して」いるとも述べています。「女性らしさの価値の危機は、『第2の性』の出現以降、加速していった。確立されたのは、反対することである。自由な行動が画一的に統一された。そこからはじまり、好戦的ではない女性は、ウソつきか愚かという雰囲気があった」、また、「ソフトな優しさを失った女性があまりにも多いので、たくさんの男性が方向転換したが、それは理解できる。誰がトゲトゲのウニを抱きたいだろうか?」をその一例として引用しています。

アビブ氏は『愛の同意』でも婉曲な言い方をしており、「結婚と『愛の同意』による男性への女性の服従は、フェミニスト宣言された性の戦いよりずっと価値があり、『無私無欲』でいることを受け入れるよう、『女性』に指示している」と述べます。それだけでなく、アビブ氏は、「二人で踊るダンスのように、男性がリードして女性が従うという美しい合意を混乱させるのに夢中になっている」との理由で、ホモセクシュアル運動に嫌悪感を抱いていることを明かします。それを示す証しとして、「男性と女性の愛は、繊細さとエスプリの宝物を形作っていると私は知っている。レズビアンは、分別を失った象の印象を与える。象が店に入って瀬戸物を踏みつぶすように、彼女たちは何もかもぶちこわしてしまう」(『フランスのギャラントリ』)を挙げました。

イレーヌ・テリー氏については、「固定観念」に服従していることをわかっていないとみなし、「彼女は、流行をあなどり、『フェミニズムの行き詰まり』『個人主義者の解放』『反異性愛の恨み』を、なんのためらいもなくひと息に一刀両断する自分の『危険な力』にうっとりしている」と非難します。エリボン氏は、「4人が名前をつけた『フランス流フェミニズム』は、伝統的、多国籍的、月並みな反フェミニストと戦闘的なホモフォビアの強力な混合でしかない」と断言します。

さらに、エリボン氏はこうつづけます。

「国粋主義者の神話を単に問題にしているのではなく、多種多様な使用目的で、歴史的または社会学的な考察の成果のように提示したい」のであり、「政治的および文化的運動で生まれた不安定性を消し、一度も存在しなかった『調和』に戻るという提唱を可能にし、不平等や階級、支配(女性に対する男性、同性愛に対する異性愛…)に基づく秩序を擁護する機能に伝統を介入させることもまた問題である」

「これらの著述家が、批判的な社会学やピエール・ブルデュー氏の偉業への攻撃を企てて結集するのは当然だ。ブルデュー氏は、『男性の支配』を研究するという許せない罪を犯し、それだけでなく、性の秩序として固定されたカテゴリーを疑問視する際に、ゲイとレズビアンの運動がひと役買うと強調しているのだ」

モナ・オズーフ氏については、アビブ氏の『愛の合意』の書評を紹介しています。「異性愛には、男女それぞれが本来の、不平等ではあるが恣意的に認めた自分の場を引き受ける楽しみがある。その異性愛の幸福を称える書物を生んだ歓喜は、悪魔の崩壊者の前でキリストの十字架像のようにふりかざされる。その崩壊者とは、フェミニストとホモセクシュアル運動の不穏な過激さを表明する、支配と利益の理論家だ」

最後に、エリボン氏は、「フランス流フェミニズム」を次のように結論づけています。

「あるときは世の中の『自然な』秩序とみなし、あるときは我々の『国家の文化』とみなすイデオロギー-これら2つは古い政治秩序を意味する-は、解体と変化を事実として認め、総合的な歴史的構築として人間社会の現実を見る思考に相反する。民主的および解放のための活動に対する反動的な修復の試みである。左派の思考に対する平凡な右派の思考である」

 

「フランス流フェミニズム」への疑問の声がフランス国内でも上がります。

DSK事件が火をつけたフランス流フェミニズムの論争5
フランスの大物政治家ストロスカーン氏の性的暴行事件をめぐるフェミニズム論争の5回目。「フランス流フェミニズム」をめぐり、フランスの特殊性ともいえる「誘惑」について知識人が発言。エリック・ファッサン氏は官能的なフェミニストの可能性を提案。
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