恵庭OL事件シンポジウム 再審無罪の青木恵子さん講演

2017年4月14日、札幌市で恵庭OL殺人事件の第5回目となるシンポジウム「恵庭OL事件を考える~裁判所は科学的審理に目を背けるな!」が開催されました。

恵庭OL殺人事件は、2000年3月に北海道で起きた殺害・遺体損壊事件。2006年に有罪が確定した女性(以下、Aさん)の無実を訴え、2017年1月10日に第2次再審請求を申し立て、同年3月1日から、弁護人、検察官、裁判官の三者協議がはじまりました。

シンポジウムの冒頭、主任弁護人の伊東秀子弁護士は、服役中(当時)のAさんからの手紙を読み上げました。

事件が起きたのは、2000年3月。あれから17年の月日が流れました。今年は2000年と同じ曜日なので、心がざわつくときが多いです。

17年前の4月14日の金曜日、朝出社した会社の前から、任意同行という名の下に、千歳署に連れて行かれた日です。

とても天気のいい朝でした。

シンポジウムに参加してくださっているみなさんもそうだと思いますが、普通に生活していて、身近に何か事件が起こったとしても、自分がその犯人にされてしまうなんて、考えたこともないと思います。

私の場合、自分が疑われてしまう原因を作ってしまったのは確かですが、だからといって、やってもいない殺人事件の犯人にされるなんて、本当に思ってもいなかったのです。

警察とか、裁判官とか、こんなにいい加減な人たちだとは、思ってもいませんでした。でも、その裁判官を信じなければ、今の私には、無実の罪を晴らすことはできません。

今回、2度目の再審請求をするために、いろいろな方々の力を貸していただいたことと思います。

本当に、これでだめなら、もうだめなんだと、思ってしまうこともあります。

原審の裁判をやっていたときも含め、たくさんの方々に応援していただき、力をもらってきました。

すべての人たちの思いが、今度こそ裁判官に届くようにと、信じたいです。

無実を勝ち取る、という気持ちを捨てず、気持ちで負けないようにしなければ、とあらためて思っています。

次に、弁護団の中山博之弁護士が、「逮捕されて17年経過し、満期まであと1年。なんとかその前に、Aさんを救い出したい、というのが弁護団の気持ち」と述べ、恵庭OL事件の概要、第1次再審請求の経緯、そして、三者協議がはじまったばかりの第2次再審請求について解説しました。

続いて、東住吉事件の冤罪被害者、青木恵子さんが講演しました。

東住吉事件の冤罪被害者、青木恵子さん

服役中に恵庭OL殺人事件を知ったという青木さんは、シンポジウムの前にAさんと面会してきたことを報告。「この事件と私の事件は、似ている部分があると感じています」と述べ、自分の無罪を勝ち取るまでの苦い経験を語りました。

青木さんは、1995年、保険金目当てに自宅に放火して長女を殺害したとして逮捕され、服役後の2016年8月、再審で無罪が確定しました。

「1995年4月17日の夕方、突然火災が起こり、娘を亡くしました。娘の死がショックで、辛い状況のなか、火災の原因が何なのか、私自身も考えましたが、『警察が調べてくれるだろう』と、その当時は、『警察は市民の味方』だと思い、警察を疑っていませんでした」

しかし、青木さんは1995年9月10日、大阪府警に、殺人・現住建造物等放火の疑いで逮捕されてしまう。

「『生命保険目的で家を放火して殺した』と勝手な想像をもとに、警察がずっと調べられたようです。9月10日、刑事に『話を聞きたいので協力してくれ』と言われ、私は協力するつもりで、東住吉署に連れて行かれました。『何かおかしいな』と思いましたが、それが任意同行だったことを当時は知りませんでした」

「取り調べは過酷でした。『やってない』と否定しても、『息子が火をつけるところを見ていた』とか、いろんなことを言われました。私は娘を亡くし、助けてあげられなかったという後悔があり、『もうどうでもいい』という気持ちになり、自白してしまったのです」

「翌日、面会に来た弁護士に、やっていないなら、『やった』と書いた調書に署名をしないようにとアドバイスをもらいました。取調室で調書を読まされ、最後に『娘を殺した』という内容が書いてあったので、署名を拒みました。前日には自白しているわけですから、刑事は顔を真っ赤にして、『今ごろ何を言っているんだ、お前は』とすごい剣幕で怒ってきました」

そして、1999年5月18日、大阪地裁は青木さんに無期懲役判決を言い渡します。

「自分自身はやっていないので、『裁判所で無実を訴えたら、わかってもらえる』『当然、無罪になる』と信じていたのですが、一審判決で無期懲役の有罪を言い渡されました。『これが日本の裁判なのか』と絶望し、『私はこれからどうなっていくんだろう』と思いました」

「弁護団は新たな弁護人も加わり、『一緒にやりましょう』と言ってくれました。『世間に訴えるべき事件』と支援者14名が集まってくださり、『支援をする会』ができました。裁判などしたこともないし、わけがわからなかったのですが、信じてくれる支援者が現れたというのが、私には大きかったです」

「控訴審で自分の気持ちをもっと訴えなければいけない」と裁判と向きあった青木さんでしたが、2004年11月2日、大阪高裁は控訴を棄却しました。

「判決を言い渡されたときに、『冗談じゃない。あなたたちに何がわかるの』と叫びました。せめて裁判官に、『あなたの判決は間違っている』と訴えたかったのです。このまま黙っておとなしくしていたら、その判決を受け入れたように思われるし、自分が間違っていたのかもしれない、という思いを一生背負っていかなければならないというのが嫌だったのです」

最高裁に上告しますが、青木さんはその前に一度、弁護士に上告を断わったといいます。

「上告審はあきらめていました。でも、いつだか忘れましたが、布川冤罪事件で29年も獄中にいた桜井さんが面会に来てくださり、『いつか青木さんも出所して、こうやって面会に行くんだよ』と言われて。獄中では無期懲役の人とお会いしますけど、無期懲役の判決を受けて出所した人とお会いするのははじめてで。『私ももしかしたら出られるかもしれない、帰られるかもしれない』という希望を桜井さんからいただいて、弁護団と一緒に闘っていこうという思いになりました」

しかし、2006年12月11日、最高裁は青木さんの上告を棄却しました。

「すごく泣きました。『なぜ、無実の私が』と。それでも、”娘殺しの母親”という罪名を絶対に消したい、自分の無実を証明するまでは負けられない、と気持ちを整理して、再審に向かって闘うことにしました」

2009年8月7日、青木さんは大阪地裁に再審請求を申し立てます。2011年5月には、弁護側が火災現場を再現した燃焼実験を実施。伊藤昭彦教授(弘前大学、恵庭OL事件の再審請求でも鑑定意見書を担当)の協力による再現実験で、ガレージの車から漏れたガソリンが風呂釜の種火に引火した事故だとわかりました。

「『私も勝てる』『もう少しだ。もう少し』と待っていました。それでも裁判官の判決を聞くまでは、本当に不安でした。無期ですから、『もう一生出られないのかもしれない』と、すごく複雑な思いでした」

2012年3月7日、大阪地裁が青木さんの再審開始を決定しました。

「ずっと負け続けていたので、再審開始が決まったときは、『やっと真実を見てくれる裁判官と巡り合えたんだ』と、本当にうれしかったです。大阪地裁は釈放も認めてくれました。釈放は週明けの月曜日で、金曜日の午後から作業もなくなり、荷物の整理をして、『これで帰れる』と、最初はうれしかったんです。ただ、土日を過ごす中で、喜びと同時に、17年間社会から離れているから、社会に出ることがすごく怖くなって。それでも、「帰れるんだから、帰らなくてはダメ」と自分を励まして、釈放当日を迎えました」

釈放の当日、弁護士が迎えに来て、青木さんは私服に着替えて、その時間を待っていました。ところが、あと10分で釈放というときに、釈放取り消されたのです。検察側が再審決定の5日後の3月12日に即時抗告し、大阪高裁は保釈を認めないという決定を下しました。

「天国から地獄に落とされた思いでした。迎えに来た弁護士は、私にかける言葉もなく、私もどう言っていいのかわかりませんでした。『どういうこと?』と聞いたら、『取り消されたんです』と。弁護士の姿が辛くて、『もういいよ。あと何年いたら帰れる?』と聞きました。『1年半ぐらいかな』と言われましたけど、結局3年半かかったんですよね」

「このときは、1年半を目標に、『もう少しここにいたら今度は帰れる』と考えました。でも、次の日、帰れなかったという実感を味わいました。職員も気を遣ってくれて、『いつまでもここにいていいよ』と。『このまま帰れなくなるんじゃないか』という恐怖にとらわれました。刑務所のなかに私を信じてくれる人もいて、なぐさめて励ましてくれたおかげで、闘っていこう、とまた気持ちを切り替えることができました」

抗告した検察側は、2013年5月に弁護側と同様の燃焼実験を実施。ほぼ同じ結果に終わり、弁護団の実験を裏づけることになりました。さらに、即時抗告審で弁護側が、給油口からガソリンが漏れたという同系列の車4台の調査結果や専門家の鑑定などを提出ました。

「ガソリンスタンドに配ったアンケートの結果から、ホンダの車からガソリンが漏れるという情報がたくさん寄せられました。再審のニュースをテレビで観た方から「自分の車からも漏れる」と情報が入り、弁護士が会いに行き、他に数台確認したそうです。ガソリンが漏れる車を譲ってもらい、立証していきました」

2015年10月23日大阪高裁は、車のガソリン漏れによる自然発火の可能性がより高まったと判断し、2012年3月の大阪地裁の再審開始決定を支持、検察側の即時抗告を棄却しました。青木さんは26日、20年ぶりに釈放されました。

「息子の誕生日が24日だったので、大阪高裁が再審開始を決定した当日に釈放されることを期待していたのですが。釈放されるまで、『また取り消されるんじゃないか』と不安でしした。釈放されて表に出ると、マスコミがたくさん集まっていました。そこで長々と取材に応じたのですが、『また刑務所に連れて行かれるんじゃないか、ここから遠ざかって逃げたい』という思いでした。

2016年12月20日、青木惠子さんは国と大阪府を相手取って 1 億4597万円の国家賠償を求めて大阪地方裁判所に提訴しました。シンポジウムの前月、2017年3月9日に、第1回口頭弁論が大阪地裁でありました。

「警察の腐った組織をなおさないかぎり、冤罪はなくならず、次から次と冤罪がうまれていきます。そして、本人だけでなく、家族までが犠牲になるということが、いつまでもつづくんじゃないかな、と。私は幸いにも再審で無罪になり、国賠をできる権利をもらいました。国賠は私だけのためではなく、いま獄中で闘っている人たちのためでもあります。冤罪をなくすために私が出ることは国賠じゃないか、と。私も高齢の両親をかかえて大変な状況ですが、長い闘いになっても、必ず国賠も勝利したいと思っています」

青木さんは自分の服役中に恵庭OL事件を知ったといいます。

「支援会のひとりが『支援する会』の通信『みなネット』(2000~2006年ごろ)をずっと私に差し入れてくださっていました。伊東弁護士が書かれた本(『恵庭OL殺人事件 こうして「犯人」は作られた』)も支援者の方からいただき、『こんな事件なんだ』『本当にひどいな』と思っていました」

「シンポジウムの前に、Aさんに面会しました。バンバン言いたいことを言う私とは違い、彼女はおとなしいと聞いていたのですが、入ってきた瞬間から笑顔であいさつされて。時間を忘れるほど、いろんなことを話しました」

「帰り際、『社会に出て、いまのままだったら辛いよ。絶対にあきらめないで、再審で無罪になるように闘ってくださいね』と伝えました。無実になっても、インターネットなどでまだ犯人だと言われる。そんな状況なんだから、無罪にならずに社会に出てきたら、今度は社会で彼女自身がつぶれるんじゃないか、とすごく心配になったので」

「Aさんの事件をメディアで取り上げて、広めてもらいたいです。Aさんを支援されている方たちも、大変ですが、無罪を勝ち取るまで、弁護団とともに、闘ってほしいです。私も、少しでもできることがあれば、力になりたいなって思います」

(2020年8月24日)

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