イラク戦争の劣化ウラン弾で13歳の時に白血病に

『週刊金曜日』「『金曜日』で逢いましょう」2012年11月2日に掲載された記事です。

「放射能はとても危険」。子どもたちが元気になるよう希望を与えたい

ザイナブ・カマル・モニーさん

白血病を発症したのは十三歳のとき。喉の痛みや手足の赤い斑点がつづき、検診を受けた。「父親が医者に『娘の病名を妻に伝えないでほしい』と言うのが聞こえ、何の病気なのか、とても怖かったです」。受診した病院では、多くの大人たちが亡くなっていた。二〇〇四年一〇月、イラク戦争から一年半が過ぎたころだった。

湾岸戦争直後の一九九一年四月生まれ。この戦争で米軍ははじめて劣化ウラン弾を大規模に用いた。居住地のバスラには三〇〇トン以上が使用され、イラク戦争では国内にその三~五倍が投下されたといわれる。イラクでは一九九三年以降、白血病などのがん、先天性障害などが増加し、劣化ウランの被ばくが原因と推定されている。

扁桃腺炎と告げられ、バスラ子ども専門病院に入院。「子どもたちの髪が抜けるのが不思議でした。でも、家族には質問できませんでした」。骨髄検査の強烈な痛み、抗がん剤注射の苦しい日々。一番のショックは脱毛だった。「病気そのものよりも、髪を失うほうが悲しかったです」。今でこそ、「健康が大切。髪は元に戻るので大丈夫」と言えるようになったが、そのころは泣いてばかり。入浴時に母がいつもなぐさめてくれた。

一年半ほど経ち、自分の病名を知った。「衝撃はなかったです。治療を終えなければ、とだけ考えました」。バスラは医薬品が不足し、医療設備も整っていなかった。治安も著しく悪化していた。「移動はとても危険でしたが、バグダッドまで家族と通院しました」。

医療状況は現在もさほど改善されていない。日本と比べ、イラクは白血病が治る確率も低い。子どもの治療を放棄してしまう親もいる。「治療を継続してあげて」。それが切なる願いだ。二年半におよぶ入院と治療。「でも、希望を失いませんでした」。入院生活にも楽しみがあった。「コンピュータゲームをしたり、年上の患者と遊ぶのは面白かったです」

病気が完治してからは、自分が過ごした院内学級を手伝い、子どもたちに勉強や絵などを教えはじめた。「絵を描くのは大好き」。アーティストになりたい気持ちもあるが、親の望む薬剤師を目指ざして勉強中だ。

二十一歳の今、最後の高校生活を送っている。得意科目は英語と生物。余暇はネットやチャット。サッカー・イラク代表のアクラム選手のファン。化学治療や点滴から解放され、ずっと夢見ていた、ごく普通の生活を満喫している。

この秋、セイブ・ザ・イラクチルドレン広島の招きで来日。広島、名古屋、東京、福島を訪問した。「薬などの支援をしてくださった日本のみなさんに感謝しています」。最新技術の国――イメージしていた近代的な工業都市とは違う日本を発見。「自然豊かで美しい。“庭園”みたいな風景です」。

日本では、自らの経験を伝えた。「戦争が病気の原因だと思っています。放射線はとても危険。でも、市街地には戦車や装甲車が放置されたままです」。市民への放射線に関する啓蒙もなされていない。

小児がんの患者には、「薬をしっかり飲み、辛抱強く耐えて。免疫力を高める食事を」と助言する。「病気に苦しんでいる子どもたちを見ると、とても辛いです。彼らの痛みや苦しみがよくわかるので。子どもたちが元気になるよう、私は希望を与える存在になりたいです」。福島市の聴衆の前でもそう語った。

ザイナム・カマル・モニー
1991年4月10日、バスラ生まれ。両親、兄弟、妹の6人家族。13歳で白血病を発症するが、病気を克服。高校に復学し、現在は最終学年の3年生。JIM-NET(日本)の支援を受け、院内学級の補助スタッフになる。

 

病院の惨状と復興への思いをイラク医師が語る(2008)
イラク戦争から5年。来日したバスラ産科小児科病院のフサム・サリ医師に、病院が抱える問題、大統領選を控えた米国への期待などのお話をうかがった。「この混迷は米国が退去するまでつづくだろう」と言う。『日刊ベリタ』2008年8月18日に掲載された記事。

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