市民による浅茅野飛行場の朝鮮人(徴用工)労働者遺骨発掘

『ビッグイシュー日本版』2010年8月1日号に掲載された記事です。

北海道宗谷郡猿払村の「飛行場前」というバス停前には、北海道らしいのどかな牧草地が広がっている。この一帯が旧日本帝国陸軍の浅茅野飛行場だったことを知る人は多くない。浅茅野飛行場は終戦の2~3年前に着工し、建設には朝鮮人も動員されたという。

猿払村では4年前から、過酷な労働で犠牲になった朝鮮人犠牲者の遺骨発掘調査が行われている。きっかけをつくったのは、札幌を拠点に活動する市民団体「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」(以下、北海道フォーラム)だ。

北海道フォーラムは、本願寺札幌別院の納骨堂に101体の朝鮮人、中国人労働者の遺骨が存在することが公表された2002年から、遺骨問題の解決に取り組んでいる。結成以降、道内で強制労働の歴史が掘り起こされ、韓国に住む遺族への遺骨返還も行った。 猿払村の浅茅野旧共同墓地にも「遺骨が眠っている」との証言があり、2005年、半信半疑のまま試掘を行い、遺骨一体を発掘した。これを機に、村民に発掘調査の協力を申し出た。

猿払村では、このときまで、朝鮮人労働者どころか、飛行場さえ話題に上ることはほとんどなかった。旧共同墓地は、戦後に改葬し、その土地は植林されたまま放置状態だった。 小山内浩一さん(46歳)も、「ここで育ったが、あまり知らなかった」と言う。協力の依頼がきっかけで村の歴史に関心を抱き、「子どもたちが、東アジアの平和や戦争を考えるきっかけになれば」と、町おこしに取り組む仲間たちと地元実行委員会を立ち上げた。

こうして、北海道フォーラム、地元住民、市民らによって実行委員会が結成され、2006年に1週間の第1回発掘調査が行われた。

このときの参加者は、日韓の考古学大学関係者や学生、一般市民など約350人。受け入れ側の地元実行委員会は、初めてのことばかりで、準備段階から苦労の連続だったという。人口約2900人の村にとって、許容範囲を越える規模の大イベントだったからだ。 地元の反発も実行委員を愕然とさせたそうだ。

村としてはあまり触れられたくない「過去」だけに、人々の戸惑いも大きく、「何かあったら困る」「村に騒動を持ち込むな」と不安が強まった。実行委員は、各方面に事情を伝え、理解を得るために日夜奔走したという。やがて、「歴史」の事実が明らかになるにつれて、支援の輪が広がっていった。 村も最初、「地方の自治体が担うには重過ぎる問題」として協力に難色を示した。

小山内さんらは「1ヶ月間、毎日役場に足を運んだ」といい、粘り強い交渉の末、「村民の応援」のかたちで、宿泊場所や備品などの提供の承諾をとりつけた。こうした活動に自治体が関わるのは画期的で、それ以後の浅茅野発掘でも、村は市民団体と大学との連携を継続している。

2009年に引きつづき、3回目の今年は、国籍や民族を超えて約75人の専門家や学生、一般市民が参加。北海道大学と韓国の漢陽大学の考古学チームが日韓共同調査を行った。5月1日から9日までに、一体の遺骨がほぼ完全な形で見つかり、墓穴14基と、少なくとも19体が確認された。鑑定によると、5体は朝鮮人の遺骨とみられるそうだ。

遺骨はまだ眠っていると予想されるが、発掘は本年で終止符を打ち、今後は、旧墓地や戦争遺跡の保存活用に取り組む。地域づくりと戦跡の保存活用に向けて、今年、猿払村役場の産業課商工観光係に専門部署が設けられ、村と北海道大学などの協働が決まった。

全国的に、次世代に戦争の記憶を継承する方法として、戦跡の保存活用が見直されつつあるが、政府や自治体からの財政支援の可能性は低く、資金や人材など課題は山積みだ。 小山内さんは、「一過性のお祭りで終わらせるわけにはいかない」と語る。「村の歴史を通して東アジアの平和を!」。地域の活性化も視野に入れた新たな挑戦がはじまった。

 

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